それから、どれだけの時間が経ったのだろうか。
真田が目を覚ますと、天井のくすんだ白色が目に飛び込んできた。
だんだんと目の焦点が合ってきたのだろうか、ぼんやりと見えていた人影もだんだん全貌が見えてきた。
自分の顔を覗き込んでいるのは、呆れ顔で丸めた新聞紙を手にしている妻のようだ。
かなり距離が近いのだろうか、極度の近眼の真田が目を凝らさなくても、その表情が見て取れる。
「……起きたか」
そういえば、背中の感触が柔らかい。少し首を動かすと、座布団が見える。どうやら、自宅のリビングのソファの上らしい。
「なんだ、夢だったか……そうだな、いくら榎でも大根で殴りかかってくるわけがない」
そう呟きながら、真田は夢の中で大根を受けた辺りをさすった。かすかに痛い。きっと妻が、全力で新聞紙で殴ったのだろう。
自慢ではないが、腕力は真田より妻の方が強い。真田自身が虚弱体質であるのに加えて、妻は頑強なのだ。
「何を訳のわからんこと言ってんだよ」
妻は頭を軽く掻きながらため息混じりに、後頭部をさすりながら何やら呟いている真田に言葉をよこす。
それから、丸めた新聞紙をテーブルの上に置いて、インターホンを親指で指した。
「とにかく、榎さんが来てるよ。さっさと玄関行って応対してきな」
どことなく凄みの効いた妻の言葉に、真田は「わかった」と条件反射的に頷き、ソファから身を起こして立ち上がった。
真田は、肩幅も筋肉もあまり無い、スラリ縦に伸びた長身である。痩身と肌の白さが相まって、よりいっそうその姿は頼りなげに見える。
寝ている間に絡まった長い銀色の髪を手櫛で軽くほどきながら、真田は玄関まで早足で歩を進めた。
それから玄関の適当なサンダルに足をかけて、彼は塗料が頼りなくなってきたドアを開けた。
「すまんな。待たせた」
「いやなに、今来たところさ」
ドアを押し開けて、また閉じないようにと左足で抑えながら、軽く頭を下げる。
すると来訪者の方は、ぱたぱたと手のひらを振って、古典的なセリフとともに―――使うシチュエーションがおかしいが、にかりと笑って見せた。
夢の中で見た姿とほとんど違わぬ、榎大介という男である。
真田より少しだけ大きい背丈、真田とは対照的に程よく焼けた肌と、鍛え上げられたことがありそうな筋肉。
ほんのりと土で汚れた紺色のジャージを身にまとい段ボール箱を抱えている様子は、農家のイメージを体現したような雰囲気があった。
―――夢で見た風景とずいぶんと似ている気がする、と真田は漠然と考えた。しかし、手にしているものは大根ではなく、段ボールだ。
少なくとも大根で殴られることはなさそうだ、と真田は心の中で軽く息をついて、「どうした?」と榎に声を掛ける。
「紳さん、ナスもらってくんないか?」
すると榎は少し苦笑を浮かべながら、真田に左腕で抱えていた段ボールを差し出した。
少しホコリっぽい段ボールは底が少しへこんでいて、かなりの重量があるように見える。
妻と二人暮らしの真田にとって、その段ボールに入っているだろうナスの量は十分すぎるようだ。
とは言え、無料でもらえるというのはいいことである。『物をくれる人はいい人だ』と、確か古人も述べていた。
買い物に行く際の荷物も減るし、真田にとってはもちろんこの申し出を断る理由は無い。
真田は「いつも悪いな」と微笑んで、薄汚れた段ボールに手を伸ばした。
「気ィ付けろよ、重いからな。ほれ」
その言葉とは裏腹に、榎は軽々と段ボールを動かして真田の細長い白腕に載せた。
「いいのか?こんなに大量に」
確かな重量が腕に伝わる。真田が予想していたよりも、遥かに重かった。少しだけ膝を曲げて、段ボールを手にした重さの衝撃を和らげた。
「売りに出せるものなんだろう」思わぬ重さの段ボールを受け取りながら、真田は素直な疑問を口にした。
「形が悪いから、ちょっと、な。味はいいつもりなんだが」
ため息混じりに苦笑しながら、榎はきまり悪そうに頭を掻いた。その様子からは、自分が作った野菜に対する自信が窺える。
まあそういうわけだから遠慮すんなよ、と榎は笑った。
「そうか。じゃあ、ありがたく頂くよ」そう言いながら、真田は受け取った段ボールをとりあえず自分の後ろ側にある傘立ての陰に降ろす。
真田は―――いや他のバイト仲間もそうなんだろうが、しょっちゅう榎から野菜を分けてもらっているため、ここ1年ほどで食卓に潤いが出ている。
旬の取れたて野菜、しかも生産者の顔が分かると来たら、近辺のスーパーマーケットでも歓迎されるものだ。
「んじゃ、そういうわけで」
「もう行くのか」
茶でも勧めようと思って呼び止めようとした矢先、榎はそう言いながら右手を軽く挙げ、くるりと踵を返す。
「これから、奈津美んとこと宗太のところにも行くつもりだからさ」
二つとも、他のバイト仲間の名である。前者は紅一点、後者はダンサーを目指している手前定職無しのフリーター。
特に宗太の方は、そういう事情で金銭的に厳しい生活を送っている、と真田は聞いたことがあった。
以前真田が家で作った煮物を分けたときにも、「マジでありがとう紳さん!感動だよ!!」とか言いながらずいぶんと喜んでいたものである。
後で聞いた話だが、
「ん、赤城と瀬戸山君のところは?」
今、榎によって名が挙がった者以外にも、アルバイト仲間が何人か存在する。彼らには大根を分けないのだろうかと思い、真田は彼らの名を口にした。
「ん?あぁ……親御さんに会うのはこっぱずかしいから、ちょっとな」
すると榎は少し首を持ち上げて、バツが悪そうに頬をかき、口ごもりながらそう答えた。
赤城と瀬戸山も、バイト仲間の名である。後者はまだ高校生であるため、親と同居している。
前者は家業を継ぐ関係で、と本人が言っていた。何の家業だかはあまり詳しく聞いたことがないので、真田はあまり覚えていない。そして、榎もきっと覚えていないだろう。
「それじゃ、そういうことで」と、正面を向いたまま榎は一歩退いて、先ほどまで段ボールを持っていた方の手を上げた。
「ああ、また後で」真田もそれに返すように頷いて、来訪者を送り出した。
榎は階段を下ると近くに停めていた自転車に跨り、颯爽と去って行った。鍵はかけていなかったらしい。
彼が自転車をこぎ出して他所に行ったのを確認してから、真田は玄関の脇に置いた段ボールに目をやった。
見た目以上にどっしりした段ボールには、おそらくたくさんの茄子が詰まっていることだろう。
秋茄子は嫁に食わすな―――そんな諺が、なぜか真田の脳裏をよぎった。
>>後編に続く
そんな感じで、後編へ続きます。