―――午後三時、小手旨ハイツR棟一〇五号室―――


 日が傾くのも少しずつ早くなってきたが、まだ明るい時間帯。真田紳一はエコバッグに詰められた生鮮食品を、冷蔵庫に移していた。
冷凍食品などは手早く冷凍庫に移さないと、溶けかねない。まだ少し残暑が厳しい今日この頃は、生物の扱いは気が抜けないのである。
 真田がブルーベリーの袋に手をかけたとき、ぴんぽん、と薄汚れた古くさいインターホンが来客を告げた。
「誰か来たみたいだぞ」テーブルで新聞を開いている妻に声を掛けながら、真田は手にした袋を冷凍庫に押し込んだ。
真田の声に妻は顔を上げたが、「あんたのお客さんじゃないの?」と言うだけで、腰を上げようとする気配などまったく感じさせない。
 面倒臭がらないでくれ、と真田は言いかけたが、普段は高校の教員として働く妻の多忙さを考えると休日のだらけっぷりは仕方無いか、と軽くため息をついた。
何はともあれ、妻の言葉に根拠があるのかないのかはよく分からないが、彼はインターホンの受話器を手に取り、「どちら様ですか?」と相手の名乗りを促した。
すると間髪入れず、少々低めではあるが明るくよく通る声が、インターホンが発するノイズとともに返ってきた。
「あー、紳さん?俺だよ俺、榎。うちで採れた野菜のおすそ分けに来たんだけども」
榎と名乗った来訪者は、真田の「アメイジング・ナイツ」でのアルバイト仲間の青年だ。物忘れが来ていそうな言い回しを多用するものの、年は真田より少し上なだけで、まだ三十路は超えない。
市内の東部の方で農業を営んでいるらしく、ときどきこのように過剰生産になってしまった野菜を知り合いに渡し歩いている、と彼は聞いたことがあった。
「わかった、今出る」
真田は受話器を戻すと、玄関まで早足で―――当然ながらたいした距離もないのだが、歩いた。
二人で使うのにちょうどいいくらいの、少し手狭な玄関口だ。
 真田は適当なサンダルに足を引っ掛けてると手を伸ばして、金属のドアノブをひねった。
「よっ、どーも」
ドアの先に立っている、真田のバイト先の知り合い―――榎大介という名と違わない大柄な男は、真田の顔を確認すると、軽く右手を挙げた。
 榎は上下ジャージに、さらに左手には大根が何本も詰まったビニール袋を提げていた。
どうも見た目には気を使うのが面倒臭い性分らしく、髪もあまり手入れした様子もなくバサバサで、襟足も伸び気味である。
真田の髪も長いが、それは意図的に首を覆うようにしているのであり、別に髪を切りに行くのを渋っているわけではない。
「……大根?」
まだ九月の下旬と、根菜類の旬の季節には程遠いはずだ。
榎の家では大根の栽培が主だ、と真田は聞いたことがあったが、いくらなんでもまだ大根は早過ぎる。
 真田の訝しげな視線に気付いてか、「まあそのなんだ。旬じゃなくても生産はすんのよ」などと言いながら、榎はビニール袋の中から見事な太さの大根を一本取り出した。
それでも立派なモンだろ、と榎は真田に笑いかける。
 確かに旬のものではない割には質がよさそうだ―――と、真田は度入りのサングラスを通して、ここ数年の専業主夫生活で培った鋭い観察眼で大根を見ながら思った。
色は自分の肌並み―――あまり比べたくないのだが―――に白いし、太さも妻の足並み―――あまり比べてはいけないが―――に立派である。
「ま、そういうわけでさ」
榎は明るい声を上げると、右手に持った立派な大根を両手に持ち替え、それを上段に構えた。
学生時代は剣道部で副主将を務めたこともある、と豪語しているのは嘘ではないようだ。
ぴんと伸びた背筋、迷いなく真田を見据える明け方の薄い空色の瞳、そこから発されている気合はただごとではない。
これがくたびれたジャージなどではなくて、もっとちゃんとした胴着を着ていたら、それから構えているものが大根ではなくて竹刀だったら、格好がついただろうに。
「よっし、しっかり受け取れよ」
場違いなくらい明るい声を発して―――ここはただのアパートだから、場所にはあっているかもしれないが、榎が大根を大きく振り下ろした。
 真田の耳に、やけに生々しく風を切る音が届く。振り下ろされる大根を避けなければならないが、真田はなぜか足元が凍りついたように全く動かせなかった。
そして、白髪頭を鈍い衝撃が襲って―――。

 それから、どれだけの時間が経ったのだろうか。
真田が目を覚ますと、天井のくすんだ白色が目に飛び込んできた。
だんだんと目の焦点が合ってきたのだろうか、ぼんやりと見えていた人影もだんだん全貌が見えてきた。
自分の顔を覗き込んでいるのは、呆れ顔で丸めた新聞紙を手にしている妻のようだ。
かなり距離が近いのだろうか、極度の近眼の真田が目を凝らさなくても、その表情が見て取れる。
「……起きたか」
そういえば、背中の感触が柔らかい。少し首を動かすと、座布団が見える。どうやら、自宅のリビングのソファの上らしい。
「なんだ、夢だったか……そうだな、いくら榎でも大根で殴りかかってくるわけがない」
そう呟きながら、真田は夢の中で大根を受けた辺りをさすった。かすかに痛い。きっと妻が、全力で新聞紙で殴ったのだろう。
自慢ではないが、腕力は真田より妻の方が強い。真田自身が虚弱体質であるのに加えて、妻は頑強なのだ。
「何を訳のわからんこと言ってんだよ」 妻は頭を軽く掻きながらため息混じりに、後頭部をさすりながら何やら呟いている真田に言葉をよこす。
それから、丸めた新聞紙をテーブルの上に置いて、インターホンを親指で指した。
「とにかく、榎さんが来てるよ。さっさと玄関行って応対してきな」
どことなく凄みの効いた妻の言葉に、真田は「わかった」と条件反射的に頷き、ソファから身を起こして立ち上がった。
真田は、肩幅も筋肉もあまり無い、スラリ縦に伸びた長身である。痩身と肌の白さが相まって、よりいっそうその姿は頼りなげに見える。
 寝ている間に絡まった長い銀色の髪を手櫛で軽くほどきながら、真田は玄関まで早足で歩を進めた。
それから玄関の適当なサンダルに足をかけて、彼は塗料が頼りなくなってきたドアを開けた。

「すまんな。待たせた」
「いやなに、今来たところさ」
ドアを押し開けて、また閉じないようにと左足で抑えながら、軽く頭を下げる。
すると来訪者の方は、ぱたぱたと手のひらを振って、古典的なセリフとともに―――使うシチュエーションがおかしいが、にかりと笑って見せた。
夢の中で見た姿とほとんど違わぬ、榎大介という男である。
真田より少しだけ大きい背丈、真田とは対照的に程よく焼けた肌と、鍛え上げられたことがありそうな筋肉。
ほんのりと土で汚れた紺色のジャージを身にまとい段ボール箱を抱えている様子は、農家のイメージを体現したような雰囲気があった。
 ―――夢で見た風景とずいぶんと似ている気がする、と真田は漠然と考えた。しかし、手にしているものは大根ではなく、段ボールだ。
少なくとも大根で殴られることはなさそうだ、と真田は心の中で軽く息をついて、「どうした?」と榎に声を掛ける。
「紳さん、ナスもらってくんないか?」 すると榎は少し苦笑を浮かべながら、真田に左腕で抱えていた段ボールを差し出した。
 少しホコリっぽい段ボールは底が少しへこんでいて、かなりの重量があるように見える。
妻と二人暮らしの真田にとって、その段ボールに入っているだろうナスの量は十分すぎるようだ。
とは言え、無料でもらえるというのはいいことである。『物をくれる人はいい人だ』と、確か古人も述べていた。
買い物に行く際の荷物も減るし、真田にとってはもちろんこの申し出を断る理由は無い。
真田は「いつも悪いな」と微笑んで、薄汚れた段ボールに手を伸ばした。
「気ィ付けろよ、重いからな。ほれ」
その言葉とは裏腹に、榎は軽々と段ボールを動かして真田の細長い白腕に載せた。
「いいのか?こんなに大量に」
確かな重量が腕に伝わる。真田が予想していたよりも、遥かに重かった。少しだけ膝を曲げて、段ボールを手にした重さの衝撃を和らげた。
「売りに出せるものなんだろう」思わぬ重さの段ボールを受け取りながら、真田は素直な疑問を口にした。
「形が悪いから、ちょっと、な。味はいいつもりなんだが」
ため息混じりに苦笑しながら、榎はきまり悪そうに頭を掻いた。その様子からは、自分が作った野菜に対する自信が窺える。
 まあそういうわけだから遠慮すんなよ、と榎は笑った。
「そうか。じゃあ、ありがたく頂くよ」そう言いながら、真田は受け取った段ボールをとりあえず自分の後ろ側にある傘立ての陰に降ろす。
 真田は―――いや他のバイト仲間もそうなんだろうが、しょっちゅう榎から野菜を分けてもらっているため、ここ1年ほどで食卓に潤いが出ている。
旬の取れたて野菜、しかも生産者の顔が分かると来たら、近辺のスーパーマーケットでも歓迎されるものだ。
「んじゃ、そういうわけで」
「もう行くのか」 茶でも勧めようと思って呼び止めようとした矢先、榎はそう言いながら右手を軽く挙げ、くるりと踵を返す。
「これから、奈津美んとこと宗太のところにも行くつもりだからさ」
二つとも、他のバイト仲間の名である。前者は紅一点、後者はダンサーを目指している手前定職無しのフリーター。
特に宗太の方は、そういう事情で金銭的に厳しい生活を送っている、と真田は聞いたことがあった。
以前真田が家で作った煮物を分けたときにも、「マジでありがとう紳さん!感動だよ!!」とか言いながらずいぶんと喜んでいたものである。
後で聞いた話だが、 「ん、赤城と瀬戸山君のところは?」
今、榎によって名が挙がった者以外にも、アルバイト仲間が何人か存在する。彼らには大根を分けないのだろうかと思い、真田は彼らの名を口にした。
「ん?あぁ……親御さんに会うのはこっぱずかしいから、ちょっとな」
すると榎は少し首を持ち上げて、バツが悪そうに頬をかき、口ごもりながらそう答えた。
赤城と瀬戸山も、バイト仲間の名である。後者はまだ高校生であるため、親と同居している。
前者は家業を継ぐ関係で、と本人が言っていた。何の家業だかはあまり詳しく聞いたことがないので、真田はあまり覚えていない。そして、榎もきっと覚えていないだろう。
「それじゃ、そういうことで」と、正面を向いたまま榎は一歩退いて、先ほどまで段ボールを持っていた方の手を上げた。
「ああ、また後で」真田もそれに返すように頷いて、来訪者を送り出した。
榎は階段を下ると近くに停めていた自転車に跨り、颯爽と去って行った。鍵はかけていなかったらしい。
 彼が自転車をこぎ出して他所に行ったのを確認してから、真田は玄関の脇に置いた段ボールに目をやった。
見た目以上にどっしりした段ボールには、おそらくたくさんの茄子が詰まっていることだろう。
秋茄子は嫁に食わすな―――そんな諺が、なぜか真田の脳裏をよぎった。


>>後編に続く


昨年の部誌に寄せた「こちら、所河市――十五夜」のリライト版です。
本来は前・中・後編、全てつめこんで一作品だったのですが、ちょっと長くなったので分割してお届けします。
お題「うたた寝」を使用しました。おかげで最初の大根アタックは夢オチです。
いや、最後じゃないからオチって言わないのか。よく分かりません。
真田はクールビューティー、榎はアレリーマン。そんな感じです。
しかしこの作品を書いてから一年経ってしまいました。おお時の流れは恐ろしい。

そんな感じで、後編へ続きます。