エーデルリッターの一人、ボルスが宮殿の書庫でのうたた寝から目覚めると、真正面に犬の顔があった。
「ばうっ」
いや、骨格や歯は犬に近いが、体毛は真っ赤だし、人懐っこそうに振っている尻尾の先には火が灯っているし、
やたらと鋭い爪と牙はどう見ても犬ではない。
と、ボルスから仔細に観察されても、それは相変わらず尻尾を振って彼の顔をのぞきこんでいる。
腹具合がいいのか躾がいいのか、どうやらすぐに食いついてくることはなさそうだ。
「……城内をモンスターが好き勝手歩いているとは、末恐ろしい世の中だな」
じっとこちらの顔を見て来るモンスターへ宛てたわけではないが、ボルスが皮肉めいた笑みを浮かべて呟く――
モンスターに近い自分自身が言うのもなんだが、いう自嘲を少し込めて。
「大丈夫、聞き分けのいい子だから」
すると、間髪入れずに書庫の奥から犬型モンスターの飼い主と思しき男の声と足音が響いた。
その足音がボルスの耳に聞こえはじめるより少し早く、モンスターは耳をぴんと立てて書庫の奥の通路へちょこちょこと走って行く。
「ばう、ばう」
「あ、書庫では静かにな」
奥から出てきてモンスターを抱き上げたのは、銀髪の騎士――ボルスにとっては見知った顔だ。
「サルゴンの飼い犬か。書庫に火の気は厳禁だろう」
「すまんな。目が離せないから、どこにでも連れて来ざるをえなくて」
偽ギュスターヴの側近中の側近、軍の中でも五本の指に入る剣の使い手。
ボルスより六つほど年上だが、彼が諌める言葉にも素直に頭を下げる。
間の抜けたところはあるが、人格者で実力も確か――だが間抜け、などとボルスが考えていることは知る由もないサルゴンは、
モンスターの子どもをボルスの目の前に突き出す。
「こいつの名前を決めようと思ってな。何かいい案はないかな、ポチ以外で」
「ポチ以外って何だ」
「ポチはギュスターヴ様に止められたんだ。
 ……確かに、こいつは相当大きくなりそうだから、ポチは似合わなくなるかもしれないが」
やけにピンポイントな禁止事項に、ボルスは反射的に突っ込みを入れるかのように聞き返す。
するとサルゴンは大まじめな顔でため息交じりに返答してから、
ほら足が太くて足先が大きいのは大きくなるんだ、とボルスの目の前にモンスターの子どもの足を前足を突き出してみせる。
今でこそ体毛が赤くて尾の先に火がついているだけのただの子犬のようだが、
それほど熱心に体を鍛えてはいないボルスの腕と比べても遜色ないくらいに太い足と大きい足先を見るに、
成犬――犬ではないが、になれば人間並みに大きくなる可能性がある、とサルゴンは踏んでいるようだ。
無論、成犬になるまでにどれだけの時間がかかって、どれだけの給餌が必要かは分からない。
「軍で使うことになってもよさそうな、格好がつく名前にしたいんだ」
「ギュスターヴでいいんじゃないか」

「確かに格好はつくんだが、こいつはメスなんだ」 「なるほどな」
名前のチョイスには疑問を持たないのか、とボルスは思ったが、
お互いに細かいことは気にしない方なので、それに関しては突っ込みは入れないことにした。
もっとも、細かいことは気にしないと言っても、
サルゴンは細かいことにあまり気づかないが気が付けば止まらない方で、
ボルスは細かいことに気が付くが気を配るのが面倒くさいので何もしない、という違いがあるのだが。
だがボルスは気遣いを親切でない方向に向けることは、嫌いではない。
「じゃあエレノ――」「いやいやいやそれ絶対に駄目だ!」
少しからかってやろうとボルスがサルゴンの知り合いの名を出してみると、
ボルスが言い終わるのも待たずにサルゴンはうわずった声でボルスを制止する。
「炎だし、性別も一致しているし、お前も愛着あるだろうし、ちょうどいいだろう」
「いや、ペットに恋人の名前をつけるって相当危ない――」
「あの年増とは恋人だったのか。下手をすれば親子並の年の差だろ」
「あのなあ……ん?」
サルゴンは、何か反論しようとしたようだが――おそらく女性の年の話はタブーだとか、エレノアさんは若々しかったからいいんだとかそういうことだろう、
うまく一言で言い表せそうになかったのか、しばらく無言になり肩を落としたかと思えば、ぱっと顔を上げた。
「エレノアさんを知ってるのか、ボルス?」
「うちの師匠と親しかったからな、何回か話したことがある」
「ああ、そうか。術士同士って、割と交流があるんだったな」
サルゴンは、そういえばそういうこともあったな、と呟いて頷くと、何やら感傷にひたりだしたようだ。どうやら思い当る節があったらしい。
そういえば例の年増は時折、荷物持ちのような若い男を連れていたが、この男を連れていた期間は比較的長かったな、とボルスも頭の片隅に転がっていた記憶を拾い上げる。
そして師匠がそれを見て若い燕だと評したが、それは自分の弟子も同じでしょうとすかさず言い返されていた――ことがあったような、なかったような。
だが、そんなことはどうでもいいし、サルゴンが犬の名づけで悩んでいることもどうでもいい。
そういえば今日は術兵団の指導をする日だった。あまり遅れると各方面からお叱りが来る。
そして、ボルスはサルゴンを放って書庫から出て行った。

それから数刻。
ボルスが練兵所から自室へ戻ろうと宮殿内を足早に歩いていると、
例のモンスターの子どもを抱えたサルゴンが、お疲れ様、と軽く片手を上げると同時に、
例のモンスターも「ばう」と鳴き声を上げる。
「あんまり吠えちゃだめだぞ、ルビー」
飼い主の言葉に、例のモンスターは「くうぅん」と鼻を鳴らす。
叱られたことが分かっているのか、しおらしく耳をしゅんと垂らした様子は普通の犬とそっくりだが、あいにくモンスターだ。
だが、ボルスはかわいらしさを売りにした愛玩動物にはさほど興味がない。
「赤いからルビーか」
「そう。分かりやすくていいだろう」
安直だな、というニュアンスをこめて小ばかにした言い方をしたつもりだったが、
相手は気にするでもなくうなずくし、名づけられた方も呼ばれたと思ったのか顔を向けて来る。
そんなモンスターの素直な様子にサルゴンは顔をほころばせたが、ボルスの冷めた目線を感じてか、
照れくさそうに頬をかいて視線を逸らした。
「かわいがってやってくれ」
「気が向いたらな」

こうして名前を得た子犬――らしきモンスターは、数カ月も経たないうちにサルゴンより大きくなったという。


サルゴンは犬が好きそうだ。