―――午前十時半、とある賃貸アパートの203号室―――

 日がほぼ南に昇ってきた頃。カーテンの隙間からこぼれた日光を受けて、戸塚宗太はベッドからのそりと身を起こした。
軽く腕を組んで背中を伸ばし、自分の隣にあったカーテンを開ける。すると、外で車が動いている様子がぼんやりと見えた。
まさかと思って、慌てて窓を開けて身を乗り出す。すると、単調な童謡を鳴らしながらゴミ捨て場を後にする車の姿が、彼の寝ぼけ眼に入った。
「っあー……やっちまった」
間延びした声を上げながら、頭を掻―――こうとして、手が髪に触れたときに、彼は一抹の違和感を感じ取ったようだ。
サイドテーブルに載せていた小さな卓上鏡を手元に引き寄せて、顔の辺りに持ち上げる。
軽く目をこすって鏡をのぞき見ると、彼は前髪の盛大なハネを確認した。もちろん、後ろ髪も妙な寝癖がついている。
 戸塚の少しくすんだ金髪は肩に届く長さを持っているため、割と髪が絡まりやすい。
髪を切るのが面倒臭いというわけではなく、意図的に伸ばしているのだ。
何度か切ることも考えたのだが、何年かこの髪型をしていたせいか、どうもこの長さがしっくり来てしまった。
とりあえず見た目から入ってみようと思って、当時憧れていたダンサーの髪形を真似たのが発端だっただろうか。
今となってはその人はすっかり髪を切るどころか剃ってしまっているのだが、それでも戸塚はこの髪型を維持している。
 何であれ、さっさとセールスマンに応対できる程度の身支度くらいはしなくては―――と、戸塚はベッドから降りて、洗面台へ足を向けた。
が、一歩踏み出そうとした瞬間、サイドテーブルに置いた携帯電話が流行の音楽などを流して振動しながら騒ぎ始めた。
着信らしい。
「はいはい宗太でーす」
戸塚は振り返ると左手で携帯電話を持ち上げ、パチン、と携帯を開けてボタンを押して、眠気を押し退けて明るく受け答える。
「あ、おはようございます戸塚さん。赤城ですが」
「ん?なんだ、ロンか。珍しいな、俺に電話なんて」
すると電話口から、戸塚のフレンドリーな挨拶を受け流す、少し鼻につく、微妙に高いトーンの声による、丁寧な返事があった。
 赤城。戸塚のアルバイト先の一つ、「アメイジングナイツ(株)」の同僚である。
ロンというのは、その赤城のあだ名の一つである。彼の名前は「龍」と書くためだ。
何気なくそう呼んだところ案外周りからも好評だったせいか、彼らのアルバイト先の人間の半分以上は彼のことを親しみをこめて「ロン」と呼んでいる。
 戸塚は同僚からの電話に、率直な感想を述べた。
彼と赤城は確かに同僚ではあるが、戸塚は常時やっかみとからかいの意をこめて赤城に「このブルジョワめー!」と言っているせいか、
赤城から彼に友好的に関わろうとすることは割と少ないのである。しかし、赤城が戸塚に苦手意識があるというわけではないようだ。
赤城はそもそも性格が明るい方ではないし、静かにしていることが好きなのだろうか、休憩時間にはあまり人と喋っていることがない。
 戸塚の疑問に、「あぁ確かに……」というため息交じりの呟きが赤城から返る。それから間をおかずに、問いの答も返ってきた。
「電話帳から真田さんに電話しようと思ったんですよ。少し、今日のことで連絡したくて」
「紳さんに?……ああ、今日の飲み会の話か」
 自分宛の電話の話に別の人物の名が挙がったことに、戸塚は少し虚を突かれたような感じを覚えた。
しかし思い当たるところを見つけ、それをすぐに赤城に問う。
 この日は、戸塚や赤城のアルバイト先の仲間で飲み会を開く予定があったのだ。時は折しも秋の初め、十五夜が近い。月見酒というわけだ。
そして二人の口から挙がった人名―――真田さん、もしくは紳さんというのは、彼らのアルバイト先の名目上のリーダーのような人だ。
 電話の先から赤城の苦笑いが少し聞こえる。そして電話から、さらりと言ってのけた赤城の言葉が戸塚の耳に届く。
「ええ、しかし手が滑って戸塚さんに電話をかけてしまったというミスなんです」
「……は?おいおい、それじゃ、すぐに間違えましたで切ればいいじゃんよ」
戸塚は電話を受けたまま立ち上がり寝室を出、ダイニングルームへと足を向ける。
赤城からの言葉にうっかり悪態をついたが、慌てて声色をいつもそうしているように明るくして、電話へ言葉を返した。
「まあ、そうなんですけど……しかしせっかくですから、言伝を頼まれて下さいな」
「あー……まあ、いいけど」
反応を聞いてか聞かずか―――おそらく聞いていないふりだろう、赤城は言葉を続ける。
 赤城は、中性的だ。男にしては少し高い声もそうだし、半端に丁寧な言葉遣いもそうだ。
彼の仕草や立ち振る舞いも、男らしくはないが女らしいとも言えない、と戸塚は思っている。
いや、中性的と言うよりはむしろ古くさいというか、雅やかというか。
正確に表せそうな言葉を戸塚は持っていないが、「大正浪漫」といったところだろうか。
 戸塚は手元にあった新聞の広告を引き寄せながら赤城に返答し、古びたボールペンを握った。
「どーぞ」と軽く促すと、赤城から「はいよ」と返事があり、言伝がそこに続いてきた。 「急用ができて、今日はちょっと遅れます。以上」
「えーと……ロン、用事で遅れる、っと。何かあったのか?」
戸塚は、赤城のの言葉を近所のスーパーマーケットの特売チラシの角に軽く書き留めた。
元から戸塚はあまり字がきれいな方ではないが、あまりにも軽い、ミミズのような字だ。後から読み直すという前提は、ほとんどない。
 問いに、赤城は少し嬉しそうな声色で応えた。
「ええ。兄上がね」「時代劇か!!」
戸塚は、シュッと虚空に向かって勢いよく突っ込みを繰り出していた。ここ最近、やけに注目されているお笑い芸人の動きである。
そんなアクションを取った後、自分自身にも突っ込みを入れたくなっていた。
これが電話だから向こうには声しか伝わらないが、もしも誰かに見られていたら、この動きと寝癖が相まって非常に恥ずかしかっただろう。
赤城が見ていたら、間違いなく今頃呆れられているところだ―――もしかすると、手を素振りした音が向こうの耳に届いたかもしれないが。
「まあ、兄上が家に帰ってくるので……空港まで出迎えに行くんですよ」
ふうんなるほど、と戸塚は適当な相づちを打つ。
 ―――帰ってくるから空港って言うと、離島か海外か?と聞こうかとも思ったが、まぁいいか、とその疑問は抱かなかったことにした。
戸塚は赤城の家族事情などを聞いても、仕方がないのだ。
聞いても仕方ないというのは、別に戸塚が赤城に興味がないということではない。
彼は赤城の話を聞いているうちに、「このブルジョワめー!」とお決まりのセリフを言って口げんかになるかもしれない、と思ったのである。
 俺もずいぶんと大人になったもんだ、と戸塚は舌を出した。そんな彼の意図を汲み取ったのだろうか、赤城はそこで話を切り上げた。
「ということで、お願いしますね。真田さんには、会った時に言ってくれればいいんで」
「はいよ。んじゃ切るぞ」「はい、それではまた後で」かちゃ、かちゃ。つーつーつー……。
携帯電話の電源ボタンを押して通話を切り、通話時間を確認する。
彼と赤城は無料通話仲間なので通話料金をあまり気にすることもなくなったところだが、今でもつい確認してしまう。
電話を閉じると、彼は「やれやれ」と息をついた。
 日は既にほぼ南。各部屋のカーテンを開け放って、戸塚は遅めの朝食の準備に取り掛かった。


>>中編に続く
昨年の部誌に寄せた「こちら、所河市――十五夜」のリライト版です。長くなりました。とても長くなりました。
「クラジューシュバリエ」の初作品です。サンダイル版の設定が先にあったんですが、いつのまにかこんな形で先に公開です。
前・中・後編のショートストーリー三本立てで、お題の「声・うたた寝・満月」を消化してお送りします。
三本あわせるとけっこうな量になると思いましたので、とりあえず分割しました。だからこのお話が極端に短いのです。
 前編では「声」に着想を得て、声だけでやりとりする「電話」を使用してみました。
登場人物の戸塚と赤城は水と油のケンカ仲間です。かえって息が合います。そんな感じのペアです。

そんなわけで、中編に続きます。