とある日の雑務(1)



 長靴形のイタリア半島に位置する都、ローマ。
ローマ帝国と呼ばれる一大帝国の首都、だったのは五十年ほど前のことだ。
今や帝国の都は「東のローマ」、アシアとグラエキアの境に位置するコンスタンティノポリスへと遷されたものの、
その繁栄ぶりも喧騒も、未だに他の諸都市の追随を許さない。
――特に、剣闘試合が行われる日は。

 そんな都の剣闘試合を目指して旅をしてきたと思しき男が一人、大通りを前に立ち止まっていた。
頭巾がついた丈の長い外套を羽織り、襟足の伸びた栗色の頭につば広の旅行帽を載せた、よく見かける旅装束に身を包んだ青年である。
しかし、絢爛たる都にも、剣闘試合にも浮足立つ様子は一切ない。
旅人の財布目当てで近づいてきたであろうごろつきを裏拳で殴り飛ばして寝かしつけつつ、
旅装束の青年は多様な言語の声や匂いが入り混じる大通りを見渡した。
「適当に時間をつぶしてるよ、とは言っていたが……どこにいるんだ、ロクシアスのやつ」

 自分が用事を済ませている間に適当に時間を潰してくると言って、ぶらりと繁華街に消えた旅の仲間。
この広い町の中を探すのは骨が折れるが、放っておくと後々面倒なことになる。
成人するかしないかという若い男が暇をつぶしに出かけるところは、と青年は少し考えた。
運動場や図書館が併設された大浴場か、食欲旺盛な年頃としては食堂か、はたまた娼館――は、こんな昼間からはさすがにないか。
どうしたって面倒だな、と溜息をついて、青年は町の中でも最大の闘技場へと続く通りを歩き出したが、すぐにその足を止めた。
ごった返す人波の中で繰り広げられる世間話、愛のささやき、罵詈雑言、野犬の鳴き声、そういったものから隔絶されたような空気を感じたのだ。
それは、葡萄酒を描いたと思われる看板が風に揺られているところからして、酒場らしい。
だが、日は傾きつつあるがまだ高くにある時間で、人の出入りも多いだろうというのに、大きい物音が一つもない。
普通の酒場ならば、料理を作る音、店員の足音、何より酔客の大声が入りまじり、不快なほどにうるさいもののはずだ。
 不審に思った旅人が建物の中を覗き込もうと、扉の無い入口に身を乗り出そうとしたその時、中から澄んだ竪琴の音色と、
「じゃあ、もう一曲弾きましょうか。英雄譚なんかいかがでしょう」と、一人の青年の弾むような声が耳に入った。
それは数時間前に別れ、ちょうど今探している最中の仲間――ロクシアスという青年のものだった。


「――皆さんも、グラエキアにアテナという女神がいらっしゃるのはご存知でしょう?」
ロクシアスは無作法にも机に腰かけ、銀色の竪琴をかき鳴らして朗々と語り出した。
丈の長い外套からのぞく手指は白いが、時折見え隠れする腕は適度に鍛えられた筋肉が見える。
「都の皆様にはミネルウァとお呼びした方が馴染みが深いかな」と、男にしては柔和な顔に微笑みを浮かべて早口で付け加えると、
一瞬にしてその顔を曇らせ、一転して声を潜めた。音量を絞ってもどこか耳に残る、華やかな声だ。
「信心深いテオドシウス皇帝陛下のおかげでなりを潜めてしまった、古くからの神々の一人ですよ」
古来よりローマ帝国は、ユピテルやユノーといった数多の神々を信奉していた。
帝国が元老院を中心としていた共和政の時代、それ以前にあった王国の時代から、千年にわたり語り継いでいた建国神話が存在していたのだ。
ところが、その神話は今、途絶えようとしていた。
 十年ほど前に東方にて正帝となったテオドシウスは、熱心なキリスト教徒であった。
正帝の地位についたこの男は、帝国の民のキリスト教化を推し進め、古き神々とそれを信仰する者たちを迫害しているのだ。
神々への捧げものは禁じられ、祭壇は撤去され、神殿は教会へと姿を変え、長きにわたって国を見守り、支えてきた聖火を消し止めた。
ただ一つの神を信じること、それ以外は許されない――そんな気風が帝国の東側で現れ出して久しい。
それが、帝国の信教の現状であった。
「こんなことを語っていたら、キリスト信奉者の人には怒られるかもしれないですけどね」と、彼は一本の弦を爪弾き、酒場の客の顔を見回した。
悲しげに俯いて最高神ユピテルの名を唱える者、怒りに拳を握り戦神マルスの名を唱えるもの、
心地よい音楽と酔いによって眠りに落ちたらしく愛しの彼女の名を唱えているものなど、多様な顔ぶれではあったが、
少なくとも自らを不敬者だとお偉方に密告するような輩がいないことを確認すると、
ロクシアスは肩まで伸びた栗色の長髪を軽く払ってから、再び竪琴の弦に手をかけて、古めかしい旋律を奏でだした。

――処女神アテナは、神々と人間どもの父ゼウスの娘で、全身に鎧を纏った姿で誕生しました。
そう、アテナは知恵の女神にして戦いの女神なのです。
しかしアテナは自ら戦うことは好まず、その戦争は常に守るための戦いでした。
地上をわがものにせんとする巨人族との戦争、凶暴で残忍なアレスとの戦い、海神ポセイドンとのアテナイをかけた争い……。
そのどれもが自らを、そして人間を守るための、『正義の戦い』でした。
その戦場において、常にアテナの周りを守る少年達がおりました――。

「彼らは、アテナの聖闘士(セイント)と呼ばれております。
 彼らは西はヒスパニアから東は絹の国まで、世界のあらゆる場所から集った、真の勇気と力をもった少年達なのです。
 守るための戦を職能として、武器を嫌った女神アテナを守るため、
 少年達は聖衣(クロス)と呼ばれる輝く鎧を身にまとい、己の肉体を武器として戦ってきました。
 曰く、その拳は空を引き裂き、その蹴りは大地を割り、そしてその微笑みはネクタルのごとく芳醇。
 神話の時代より、この世に邪悪がはびこる時、必ず現れるという希望の闘士……」
ロクシアスは大河が流れるかのようなゆったりとした竪琴の伴奏と語りを一度止め、いやにはっきりと聞こえる声で言った。
「それが、アテナの聖闘士です」



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