とある日の雑務(2)



 とっとと連れを回収しようと店内に入ろうとしていた旅装束の青年は、自分の足が止まっていることに気が付いた。
彼とロクシアスとは割とつきあいが長い「仲間」で、彼の竪琴と歌には慣れ親しんでいる。
それでもロクシアスが本気で奏でる竪琴の音は不思議と飽きが来ず、こうしてついつい聞き入ってしまうのだ、が。
「と、今回はここまでにしましょう」
ちょうど敷居を跨いで店内に入ろうとした体勢で固まっている旅装束姿の男を認めると、ロクシアスは竪琴を置いて不意に手を叩いた。
「なんだよ兄さん、本題はここからじゃないのかい」
先ほど戦神へ祈りを捧げていた精悍な顔立ちの男が、残念そうな声を上げる。するとロクシアスは苦笑いを浮かべてから、口を尖らせた。
「今日は剣闘試合があるじゃないですか。僕の歌より、皆様はそういうのがお好きでしょう」
「わはは、そりゃあそうだ」男はロクシアスの自虐とも取れる発言をまるで意に介することなく席を立ち、竪琴の近くに数枚の青銅貨を積んだ。
「今日は期待の新人がいるそうですからなあ」こっくりと舟を漕いでいた禿頭が、眠たげな声で相槌を打った。「ライラプス、でしたっけ」
「ああ、そんな名前だ。同じく期待の新人だったブルートゥスを素手で殴り倒したんだよ」
去り際にそう言うと、男は足早に酒場を後にした。鋲を打たれた靴底の音が響いているあたりからして、軍人だったのかもしれない。
「うぅむ……そんなことが本当に起こるとは思えないんですがね。剣闘士っていうのは、鉄の鎧をつけているだろうに」
男の後に続くように禿頭が席を立ちつつ、首をひねった。
「あれ、先生はご覧にならなかったんですか」
「ええ、まあ……どうも私は、ああいうのは苦手でね。血生臭いし、うるさいし……野蛮というか。ああ、歌、よかったですよ」
「あ、どうも。やっぱり教養ある弁護士の方は違うなあ」
耳敏くその言葉を拾ったロクシアスに、禿頭は苦笑いで答えながら数枚の青銅貨を握らせた。
その言葉に、ロクシアスも苦笑いで返したが、手のひらに入ってきた貨幣の重さによって、満面の笑顔を浮かべた。収入は上々のようだ。
「では、僕もこれでお暇しますよ。連れを待たせてしまっているので」
年季が入りところどころすり切れた外套とは対照的な銀の竪琴を小脇に抱えると、ロクシアスは軽やかに歩き出し、去り際に赤毛の給仕女にウインクを送り手を振る。
「じゃあ行こうか、フォルティス」
そして、未だに入口の近くに突っ立っていた旅装束の青年を促して、大通りへと歩いていった。


「しかしさあ……お前も、ちょっとは働けよ。こっちはチケット手配して、闘技場の係員に手を回して大変だったんだぞ」
「失礼だなあ。僕だって、情報収集ならばっちりしたよ」
都の中心部に位置するフラウィウス円形闘技場――の近くに立っているネロ帝の巨像にちなんでコロッセウムと呼ばれることが多いが、の後ろの席に腰を落ち着けると、
フォルティスと呼ばれた旅装束の青年はつば広の帽子を取り、軽く頭を振りつつ開口一番に文句を垂れた。
それに対してロクシアスはさして怒っていない口調で反論しつつ、先ほどの居酒屋で買ったと思しき串焼きを「これ、おごり」とフォルティスに手渡し、一気に喋りだした。
「今回の目玉はライラプスっていう新人剣闘士。
 年は僕より少し下くらいっていうから、たぶん十三、四歳。
 割と顔がいいから、兜はかぶっていない。投網剣闘士だから網と槍は持たされているけれど、素手の方が強い。
 剣闘士デビューは去年の春で、決まり手はストレートパンチ。相手が被っていた鉄の兜は見事に拳型にへこんでおじゃんになった。
 来歴は不明だけど、自ら志願して剣闘士になろうとしたみたいで、
 訓練生時代から突出した力で練習台の猛獣を殴り倒したり教官をうっかり殺しかけたりしたそうだ。
 ラテン語もグラエキアの言葉も流暢に喋るらしいから、いい家の出なのかもしれないっていう噂が立っているね。
 その圧倒的な力と少年らしいかわいい顔立ちから、ご婦人方とそっちの気があるおじさん方からの支持は厚いみたい。
 彼宛にと闘技場へ持ち込まれた品の中には、有力議員の奥方から贈られたと思われる葡萄酒があったんだけれど、
 これに媚薬が混ぜられていたとかで、奥方は今、姦通処罰の法に照らされて旦那によって訴えられているんだってさ。
 ところが旦那の方もまた好色で――」
「おい、話がズレてきてるぞ」
早口でまくしたてるロクシアスに、フォルティスは串焼きをかじりつつ本題の先を促した。
ロクシアスは、ああはいはい、と悪びれもせずににこりとしてから頷いて、闘技場に入る前に露店で買ったらしい干し杏を口に含む。
「つまりね、ライラプスはただの剣闘士じゃないってこと……あ、始まるよ」
タイミングよく、砂煙とともに二人の剣闘士が忽然と中央のフィールドに姿を現した。
それと同時に周りから、地鳴りのようなどよめきと黄色い声が上がる。今彼らが座っている最上階の観客は、一般市民と女性たちだ。
下の客席――元老院の議員や裕福な市民達の席だ―――から聞こえる声には、若い美形に歓声を上げる女性の声はない。
そんな一般市民達の熱狂をよそに、二人は冷静に剣闘士達を観察し、噂のライラプスの姿を捉えた。
「ライラプスっていうのは、あっちだね。手前の方の」
「黒髪の小さいヤツか。なるほど、あれは確かに他とは違うな」
一人は頭部をすっぽりと覆う兜に大型の方形盾と短剣を手にしている。
周りの観客のどよめきから、やだ相変わらず素敵、だの、今日も一発かましてやれ、だの聞こえてくるところから、手練れらしい。
兜によって顔面も覆われているため表情はよく見えないが、二人には余裕をもって構えているように見受けられた。
そしてもう一人が、噂に上っているライラプスなる剣闘士らしい。
成人前の小さい身体に似つかわしくない整った筋肉と機敏な足さばき――そして何より、
文字通り命をつなぐであろう武器となる投げ網と三又の槍をいかにも邪魔そうに持った武器慣れしていない様子から、
二人には一目で普通の剣闘士とは違うそれが分かった。
「武器も満足に使えない剣闘士が目玉扱いとは、参ったもんだよ」
「あれっ、ロングスさん。さっきはどうも」
フォルティスの隣に座っていた観客が唐突にもらした嘆息に、ロクシアスは顔を上げた。先ほどの酒場にいた、精悍な顔立ちの男だ。
近くで見てみると、腕や足に刀傷と見られる白い筋が何本も走っていた。
「よう、詩人の兄さん。あんたも、これが目当てだったのかい」
「ええ、まあ。素手の剣闘士……って言っても武器は持ってるのか、まあいいや、そういうのなんて滅多に見られませんからね」
ロクシアスは愛想笑いを浮かべると、目を輝かせているかのような弾む口調で言葉を返した。
「普通に考えれば、死にますよね。剣闘士としては未熟そうじゃないですか」
「全くだ……おいおい、何してるんだ、あれは。んなとこ投げてどうするんだ」
一同がフィールドに視線を戻すと、ライラプスが小さい身体を精一杯に伸ばして、網を投げつけたところだった。
激しい土埃を舞わせながら、投網は対戦相手から十数歩離れた惜しいとも言い難い場所に着地した。
前後の席から、怒号やら哄笑やらのやかましい声が押し寄せてくる。
その声はフィールドにも届いているのだろうし、対戦相手からも嘲笑を買ったのだろう。ライラプスはばつが悪そうに顔を歪めたようだ。
「拾いに行けば、もちろんその隙を突かれるだろうさ。うんうん、文字通り突かれるだろうな、あの短剣で」
「でも、あいつは武器がない方が強いって話だろ?」
うまいことを言ったつもりで一人頷く男の言葉を全く意に介さずに、フォルティスはロクシアスに声をかける。
ロクシアスは首を一瞬フォルティスに向けて「らしいね」と返すと、すぐにフィールドに視線を移しなおした。
兜をかぶった対戦相手が何やら雄叫びを上げながら、投網を拾おうと身を屈めているライラプス少年の肩口目がけて剣を振りおろしていた。
ほとんど防具をつけていないライラプスには、一撃でももらえば深手となるだろう。
「あれ、避けないとまずいんじゃ――」
「いや、あそこから避けるぞ。ほら」
阿鼻叫喚にも似た観客たちの割れんばかりの声が、闘技場を揺るがしている。
初めて見る剣闘試合の熱気に気圧されつつ、ロクシアスは隣で至って冷静に試合を観察しているフォルティスの顔を見やった。
するとフォルティスはまったく普段通りの口調で軽く答えを返し、フィールドを見るように促した。
 ロクシアスが恐る恐る視線をフィールドへ戻すと、すんでのところで斬撃をかわしたライラプスの右拳が一発、
相手の腹に打ち込まれ――た瞬間、その体が壁まで吹き飛ばされていた。
そこから一瞬遅れて、ドオォォォン、と低い音が鳴り響く。
小柄な少年の拳の一発で壁に叩き付けられた剣闘士は、ずるずると壁からずり落ち、どっ、とうつ伏せに地面に倒れこんだ。
――審判の試合中止を告げる声が響いた。

闘技場の前に居座っていたノミ屋に殺到する人々――先ほどまで隣に座っていた観客も例外ではない、を横目で見送り、
ほぼ誰もいなくなった一般市民席で、二人は顔を見合わせた。
「どう思う?」
「間違いないだろう。素手の一撃で成人した男をあそこまで吹っ飛ばせる力と言い、武器慣れしてない感じと言い、年齢と言い」
ロクシアスの漠然とした問いの意図を汲み取り、フォルティスは指を折りつつ、
一つ一つ若い剣闘士――武器をまるで役に立てていないあたりからして拳闘士と呼ぶのがふさわしいかもしれない、の特徴を挙げる。
「あれは、聖域から行方をくらませていた聖闘士だ」



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