とある日の雑務(3)



事の起こりは、ふた月ほど前に遡る。
都の闘技場に現れた新人の剣闘士が対戦相手を無手の一撃で仕留めた、という噂が聖闘士の総本山であるアテナの聖域に届いたのだ。
確かに熟練したレスラーや拳闘士ならば、そういったことも可能かもしれない。
だが、その剣闘士がまだ成人もしていない少年であることが、どうも引っかかるのである。
その年でそういった競技の達人の域に達する――ということはあまりないはずだが、
その年で破壊の神髄――原子を砕くことを体得した人間は、この聖域内には多い。
つまるところ、その剣闘士は聖闘士か、それに類する他の神々に仕える闘士である可能性が高いのだ。
フォルティスとロクシアスは聖域の食堂で、不意にとある上層部の人間にそんな話を持ち掛けられた。
「お前たちも知っての通り、私闘や私利私欲のために聖衣や聖闘士としての力を用いれば、処罰は免れん」
つい最近二十歳を迎えたという割には幼い顔に真剣な表情を浮かべながら、上司はかぶりを振った。
「だが、きっと彼にも何らかの事情があるのだろう……それも問わずに処分されることは、なるべく避けたいんだ」
この上司は、昔から優しかった。フォルティスとの間柄は確かに上司と部下、そして師弟でもあるが、まるで兄のように接してくれる。
「だから、私よりも上の上層部に知られる前に、
 説得なり引退勧告なりで穏便に処理して、何事もなかったかのように聖域まで連れ戻してほしいんだ」
そしてこの上司は、割と無茶なことも平然と頼んでくるのだ。


噂の剣闘士の試合が終了してから数刻後。
「(ちょっとフォルティス、本当にこっちで合ってるんだろうね)」
剣闘士達は、闘技場にほど近い宿舎に身を置いている――と言うよりは、詰め込まれているという表現が正確かもしれない。
二人が松明の明かりを頼りにひたすら歩んでいるのは、闘技場と剣闘士の宿舎をつなぐ地下通路だ。
「(まるで、ミノタウロスを押し込んだ迷宮みたいじゃないか)」
迷路のように複雑に張り巡らされた地下通路は、日の光が差し込まず、薄暗い。
だが、不意に闘技場の人々の歓声やどよめきが押し寄せ、ここが地上から隔絶された場所ではないことを思い起こさせる。
「(金を掴ませてるから、よっぽどの人でなしでない限りは大丈夫だろう。ほら着いた)」
二人を先導する褐色の奴隷――ロクシアスが酒場で歌っている間にフォルティスが手を回しておいたのだが、は、
一言も発さずにひたすら歩いていたが、一つの部屋の前で足を止めた。
ローマ人としては並程度の身長とそれに見合う足の長さのフォルティスとロクシアスは、
この奴隷と距離を開けられないよう、若干早足で歩きながら声を潜めて言葉をかけあっていたが、
奴隷が足を止めたのを見ると、そろり、と足を運んだ。
フォルティスは粗末な扉の方に一度首を向けてから、再び奴隷の顔を見やる。すると奴隷は、こくり、と頷いた。
この扉の先が、人気の剣闘士ライラプス――聖域から脱走した聖闘士が控えている部屋のようだ。
フォルティスは満足げな微笑みを見せて、節くれだった奴隷の指に数枚の金貨を置いた。それを確認すると、奴隷は足早に立ち去った。
自分の仕事が終われば、あとは我関せずと言ったところか。
「(ずいぶんと気前がいいね)」
「(これから、ここの剣闘士が脱走したって言ってこっぴどく叱られるだろ? その分だと思ってもらえればいいさ)」
「(だとすると安い気もするんだけど)」
「(前金もあるから、まあトントンじゃないか)」
ひとしきり勝手なことをささやき声で言いあったのち、フォルティスが扉を軽く叩いた。
ほどなくして、中から「開いてるよ」と声がした。
前情報通り相当若い、いやむしろ幼いと言っても差支えない年の頃の少年らしい、高い声だ。二人は顔を見合わせると、軋む扉を押し開けた。
 その剣闘士は、部屋の中央にいた。テーブルの上に置かれたランプの明かりが、来訪者の方を向いたあどけない顔をはっきりと照らしている。
「ええと……どちらさん?」見覚えのない客に、剣闘士はしばし目を瞬かせると、気の抜けた声を上げた。
「別に怪しい者じゃないんだけれど」ロクシアスはとっさに口を開いた。「っていう人に限って怪しいんだよね」
「は、はあ……?」
突如、グラエキアの言葉で一人漫才を繰り広げだした見知らぬ青年にどう対処したものか分からず、剣闘士は再び気の抜けた声を上げる。
見かねたもう一人が、ばつが悪そうに頬をかく相方を押しのけ、正面から剣闘士を見据えた。
闘技場の客席から遠目で見た時よりもずっと小さく見えるな、と思った。
命のやりとりの現場である闘技場のフィールドを抜けて、肩の力を抜くとこうなるのだろうか。
「単刀直入に聞くが――あんた、何者だ?」
ささやくような小ささで、しかしよく聞き手の体に染み入るような威圧感を持った声で問いかける。
「拳の一発で大の大人をあそこまで吹っ飛ばすなんて、普通の人間にはできない芸当だろう」
「…………さあ。オレには、何のことだか」
それに対して、剣闘士の方はうっすらと不敵な笑いさえ浮かべてごく軽い口調で答える。
だが、剣闘士がほんのわずかに身を引き、その拳に力が入ったのを、ロクシアスは見逃さなかった。
「ライラプス、さん……だっけ。良かったら、事情を話してくれないかな?」
ロクシアスは相手の警戒を解くようにすっと歩み寄ると、
できるかぎり優しい声色で――と言ってもこの手の演技は得意なのでまったく苦ではないが、微笑みかけ、
剣闘士の握られた左拳を包むように、そっと掌を置いて、「君が抱えている事情によっては、命は助かるかもしれない」と、言葉を続けた。
「え……いや、何を言って……」
剣闘士は一瞬だけ、ロクシアスの優しげな声と表情にほだされたらしく何か口を開きかけたが、すぐに首を横に振り、厳しい表情に戻る。
ロクシアスは、はあ、と溜息をつくと、一歩退いたフォルティスへ、ちらり、と視線を送り、手短に思念を送った。
「(どストレートに言わないと白状しそうにないよ)」ロクシアスが小さく首を傾げて、横目で剣闘士を見やる。
「(手早く終わらせよう。他の人間に感づかれてもまずい)」フォルティスは軽く頷いた。
相方の承諾の意を確認すると、ロクシアスは剣闘士の拳の上に置いていた手を放し、一瞬にして肩を強くつかんで強引に顔を引き寄せた。
「わっ!?」色白の細腕から予想外の力を受けたことと、目にも留まらぬ素早い動きに、思わず剣闘士は声を上げ、目の前にいる青年の顔を凝視した。
「静かにして」事情を話してくれないか、と言った優しい顔とは打って変わっての無表情だ。
たれ目気味のすみれ色の瞳に冷やかさを浮かべながら、ロクシアスは、努めて静かな声で抑揚なく言い放った。
「聖域からの脱走は死罪だと、君も知らないわけじゃないだろう」
「えっ? そ、それは……!」
ばっ、と顔を上げた剣闘士に、ロクシアスは畳みかけるように言葉を続ける。
「刺客はすぐそこまで来ているんだ。もう逃げられないよ」
「い、いったいどういう……」
恐怖のあまり上ずりだした剣闘士の言葉を聞き終わるより先に、
ロクシアスとフォルティスは旅人が身に着けている外套に手をかけ、バサッ、と勢いよくかなぐり捨てる。
その姿を見た剣闘士は、思わず絶望にも似た叫び声をあげた。
「あ……ああ……、まさか、あんた……いえ、あなた達は!」
二人の頭巾と外套の下から現れたのは、白い衣と銀色に輝く鎧――聖衣だった。
「オレはフォルティス。鷲座(アエートス)のフォルティス」
「同じく、琴座(リュラー)のロクシアスだ」
オリーブの葉と大きく羽を広げた猛禽の意匠が目を惹くフォルティスの聖衣と、
なだらかな曲線と控えめな幾何学模様があしらわれたロクシアスの聖衣と、左手に抱えられた竪琴。
「聖闘士……! あぁ……これで、終わりか……」
剣闘士、いや、聖域から脱走してきた聖闘士は、ようやく漠然とした予感が確信に変わり、床上にへたりこんだ。
「とりあえず、事情を聞かせてくれるか」



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