とある日の雑務(4)




「僕は、小犬座(キュオーン・ミクロス)のシュロンといいます。ここではライラプスと名乗っていました」
二人に粗末な寝台に座るよう促してから自分は椅子に腰かけると、ぽつり、ぽつり、と、剣闘士のライラプス改めシュロンは話しだした。
「聖域を出たのは一年前、聖闘士になって間もなくです。その時はすぐに聖域へ戻るつもりでいたのですが……」
「何か、聖域に戻ることができない理由ができてしまったんだね?」
うつむいて言葉を詰まらせたシュロンの顔をのぞきこむようにして、ロクシアスは話の先を促す。
「はい」と消え入りそうな声で答えて、シュロンは言葉を続けた。「お金が欲しかったんです」
「うん……ん? お金?」
「ええ、お金です……あっ、別に賭博に手を出したとか高級娼婦に手を出したって話じゃないんですよ。
 僕、まだ十三ですから、そういうのはまだ早いってわかってるし、たぶんそういう場所に行ったって止められるので」
人里離れした聖域ではなかなか耳にする機会が少ない言葉が聖闘士から出てきて、フォルティスとロクシアスは思わず耳を疑う。
彼らが聞き返した言葉にシュロンは神妙な面持ちで頷いたかと思えば、慌てて首を振りながら弁解しだした。
「ははは、その辺の観念がしっかりしてるのはいいことだ」
フォルティスとしてはそんな疑いをかけようとは思ってもいなかったのだが、シュロンの必死の弁解に思わず破顔した。
剣闘士などとやくざな商売に手を染めた割には道徳心はあるらしい。
もっとも、聖闘士は女神アテナに仕える聖職者、言わば修道者のようなものなので、道徳心があるのは当然かもしれないが。
「で、実際は?」
「あ、はい。初めての任務の帰りに故郷に寄ったら……父が、借金のカタに奴隷として売り飛ばされていたんです」
シュロンはフォルティスに促され、我に返ったようにはっ、としてから、震えた声で話を続けた。
「父を、自由の身にしてやりたくて……でも、奴隷一人買えるお金なんて、持っていなかったから」
「だから、手っ取り早く大金を稼げる剣闘士になって……父親を買い戻そうとしていたわけか。
 聖域から行方をくらませて、聖闘士としての力を個人的な理由のために使って」
「ごめんなさい!」
相方はこの手の話には弱いらしく、シュロンから困ったような顔を背けているようだ。
と、フォルティスは横目でちらりと確認すると、淡々と責めるように言葉をかける。
遮るように、シュロンは悲鳴に近い声を上げて頭を低くした。
「聖域には帰ります、でもせめて、父の身を解放してから――」「は?」
素直に謝ったのですぐさま聖域に帰還するのかと思われたが、そうでもなかったようだ。フォルティスはつい、間の抜けた声を上げた。
「あっ」シュロンはうっかり口答えしてしまったことに気が付いて、慌てて椅子から立ち上がって跪き、頭を下げた。
「その後だったら、どんな処罰でも受けますから! ですから、どうか今は!」
そのまま土下座までしそうな勢いのシュロンを軽くたしなめ、ロクシアスも立ち上がって床に座ると、シュロンの肩をぽん、と叩いてやった。
「ええとね」肩を叩いてやったはいいが、かける言葉が見つからない。「どうしようか」
困ったように――実際困っているのだが、ロクシアスは、相方に声をかける。
フォルティスは、うーん、と一度唸ると、結論を出したらしく軽く頷いて顔を上げた。
その顔には迷いがなく、何を言われても動じないし意見を変えるつもりはない、という様子だ。
そんな冷たい雰囲気がにじみ出ているのを感じ取って、シュロンは固唾をのみ、ロクシアスは眉をひそめた。
「すぐに聖域に連れ戻すぞ」
フォルティスが反論を受け付けないかのようにぴしゃりと言い放った様子に、
予想はついていたものの、当のシュロンは「そんな……!」と涙声をあげてがっくりとうなだれた。
「フォルティス!」ロクシアスは、きっ、とフォルティスを睨み付けた。「それじゃ、シュロンのお父さんは――」
「オレ達が頼まれたのは」フォルティスは、くいっ、と親指でシュロンを示す。「あくまでもこいつの保護だ。他には手は出せないだろ」
「それは、確かにそうだけど」正論を突き付けられ、ロクシアスは渋々引き下がる。どうやら彼はシュロンの肩を持つつもりらしい。
任務よりも人道的に正しいことを優先したいらしい様子にフォルティスは苦笑いを浮かべたが、すぐにロクシアスとシュロンを手招きして耳を向けさせた。
「事情を上層部に話してもらおう。オレ達だって、何か事情があるのかもしれない、って言われてたし、頼み込む余地はあるだろう」
「そうか!」ロクシアスは手をぽん、と打ち、シュロンに微笑みかけた。「そうだね。あの人なら、親身に話を聞いてくれるはずだよ」
「え、それはどういう……」
「オレ達の上司が、お前の処罰のことも父親のことも、なんとかしてくれる――かもしれない。希望的観測だが」
不安げにおずおずと疑問の声を上げたシュロンの言葉の終わりを待たずに、フォルティスは腰かけていた寝台から立ち上がった。
「何にしろ、お前にはいったん聖域まで来てもらうぞ。このままここにいても、いずれは聖域の上層部が気付くだろう」
「すると、もっと話の通じない連中が来るかもしれないからね。今のうちになんとかしようよってことさ」
脱ぎ捨てた外套を再び着込みながら二人は言葉を続けつつ、シュロンにも準備を促した。
「ほら、そこのいかにも大事そうな聖衣の箱背負って。脱出するよ」
「わ、分かりました!」
「って言うかあれ、よく取られなかったな」
「全力で抵抗したので、なんとかなりました」
「殴り飛ばしたのな」



「そうか、親御さんが奴隷に……それは気の毒な話だな」
ローマより遥かに離れたグラエキアの都市、アテナイ――の郊外に広がる、女神アテナの聖域。
ここに帰還した鷲座のフォルティス、琴座のロクシアス、そして小犬座のシュロンは、今回の任務を通達した上司のもとを訪れていた。
聖域内にある小高い丘の一つに、その上司は矢の印が描かれた広い邸宅を持っている――と言うよりは、聖域から借りている、と言うべきか。
急ぎ足で戻ってきた部下と目的の人物を労うのもそこそこに、トゥニカと厚織の白地の羽織を身に着けた彼は、今回の事件の顛末を三人から仔細に聞き出していた。
「でもよかった、賭博にのめりこんでっていう話じゃなくて。
 そういう事情だったら、さすがに聖域の法に則って処罰せざるを得ないからなあ」
「あ、え、えっと……ええ、はい」
「アクラエースさん、ちょっと」
「あんまり若い子をからかっちゃダメですよ、緊張で死んじゃうかもしれないですから。ねえ、シュロン」
「ああ、すまない。話を戻そうか……ちなみにシュロン、君のお父さんの前職は?」
目を細めて穏やかな笑みを浮かべた上司――アクラエースに、シュロンはどう対応していいかわからずに適当な相槌を打つ。
その様子を咎める風でなく、フォルティスは呆れ気味な声を上げ、ロクシアスは手のひらをぱたぱたと振りながらやんわりと仲裁に入った。
するとアクラエースは二十歳の割には幼い顔にいたずらっぽい笑みを浮かべて、軽く頭を下げてからシュロンの方へ向き直った。
傾きかけた日の光を受けて、ゆるやかに波打った白金色の髪が赤銅色に輝いている。
「え? ……ええ、闘技場付の医師でした」
「医師か! それはいい。ちょっと待っていてくれ……」
話を戻したのか戻していないのか、アクラエースは手元のパピルスをめくりながらごく軽い口調で尋ねる。
シュロンが少し首を傾げてから誇らしげに胸を張って答えると、アクラエースは快哉の声をあげると、三人の聖闘士にその場にとどまっているように命じた。
そのまま机上に積んであった白紙のパピルスに、目にも留まらぬ速さで青銅製のペンを走らせ、ときどき筆圧で紙を破りながら数枚のパピルスを文字で埋めた。
「これでよし、と。……高齢で引退した医師が何人かいて、人手不足で困っていたんだ。
 君のお父さんの身を聖域で買い取ってもらえるように、手を回そう。これで安心だろう?」
「あ、えっ!? い、いいんですか、そんな……」
後ろに控えていた長身の従者を手招きして、何やら推薦文らしきものが書かれた一抱えのパピルスを手渡すと二言三言伝え、医務室の方へと走らせた。
あまりにもてきぱきと事態を進めていくアクラエースに、シュロンは呆気にとられていたが、
視線を投げかけられていることに気が付くと、ぴしっと背筋を伸ばしつつ、まとまった言葉にならない言葉を返した。
アクラエースはシュロンの返答に、困ったような顔と微笑を浮かべて「もちろん」と頷いてから、
抑えた語調で「だが、一ついいかな」と改めて身を乗り出し、シュロンと向かい合った。
びくっ、と肩を跳ね上げながら、「は、はいっ!」と力の入りすぎた返事をして、直立不動の体勢でアクラエースの言葉の続きを待つ。
「お前が剣闘士稼業で得た収入だが、お父さんを聖域で購入する資金に充てさせてもらおう」
「そ、それはもちろん! ええと――あの、これです。これで全てです」
シュロンは慌てて背負っていた箱を床へ降ろし、中から金貨を詰めた小さい麻の袋を引っ張り出した。
その箱は普段は聖衣のみを納めるべき箱なのだが、この中に私物を詰め込んできていたようだ。
引っ張り出した金貨の袋をどう渡すべきかとシュロンが少し考えようとしたうちに、隣に立っていたフォルティスが金貨をシュロンの掌からひょいと取り上げて、
部屋の隅に立ってずっと話を聞いていたと思しき栗色の髪の少年に投げてよこした。
「ん……うん、なるほど。けっこう稼ぎがいいんだな、剣闘士って」
「え、そんなにですか? ……あ、本当だ。侮れないなー、若いのに」
不意に投げられた袋を慌てて受け止めた少年は、ぱたぱたとアクラエースのもとへかけより、袋を紐解いた。
その中身を机の上に並べて金貨の枚数を確認させると、アクラエースとロクシアスは冗談とも本気ともつかない口調で感心したような声を上げる。
「あ……まあ、おかげさまで……あの、ええと、はい。それなりに」
肯定すると怒られそうだが、否定しても怒られそうだ。またしてもシュロンはどう対応していいかわからず、適当な相槌を打つ。
もともと小さい体をさらに縮こまらせてしまっている彼の様子に、フォルティスは苦笑いを浮かべた。
「アクラエースさん。これ以上からかうと、胃に穴が開いちまいますよ」
「ん……ああそうだな、ごめんごめん。ちょっと悪ノリが過ぎたな」
「い、いえ、そんな、大丈夫です!」
悪気がなかったらしいアクラエースは部下のフォルティスに諌められ、軽く頭を下げる。
だがシュロンの方は相当位の高い人間に頭を下げさせてしまったことで、かえって混乱しているらしい。
彼が顔を赤くして首を横に振るさまを見ていると、本当に緊張で死ぬんじゃないかとアクラエースもだんだん心配になってきたので、
咳払いをひとつ挟んでから椅子から立ち上がった。
「小犬座のシュロン。再び、聖域のためにその拳をふるってくれるな?」
「はい」今度は落ち着いた声で答えた。「アテナに誓って」



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