聖闘士らしい仕事へ(3)



「お疲れ様。よかったと思うぞ」
南の冠座の聖闘士候補の少年が座学を離れて実技の訓練に向かって走って行ったことを確認すると、フォルティスは「はあぁ」と、大きく息をつく。
そのタイミングを見計らって、近くの階段に腰かけて二人の様子を見守っていた青年は、立ち上がるとぱちぱち、と拍手を送りながら歩いてきた。
「アクラエースさん」フォルティスは振り返り、恨みがましい視線を送る。「今日の今日になって無茶振りするの、やめてくださいよ」
フォルティスら白銀聖闘士は、所有者のない聖衣の管理を聖域より委ねられ、その所有者となる新たなる聖闘士の育成を任せられることが少なくない。
鷲座の白銀聖闘士に任命されてから4年ほど経った彼も、ゆくゆくは聖闘士の素質がある少年を育て上げ、アテナに仕える戦士を世に送り出すことが求められるだろう。
今日はその予行演習として、普段は彼の上司であるアクラエースのもとについて修行をしている候補生に座学をさせられたのである。
「いや、悪い悪い。思いついたのが今日の今日だったから」
口では悪いと言って頬をかいても、二十歳になったばかりの割には幼い顔に浮かべたさわやかな笑みは、悪びれているようには見えない。
おそらく、これで突然新人の育成をふっても対応できそうだな、などと思っているのだろう。
フォルティスはその様子に、反論しても真面目に聞き入れないだろうなと判断し、ため息をついた。
「まあ、あいつはもの分かりのいい奴で、オレも助かりましたけど」
「気が弱いところはあるが、呑み込みは早かっただろう?」
「ええ。やりやすかったですよ」
「じゃあそのうち、もう一癖ある候補生を――?」
なごやかに談笑している中で、穏やかな笑顔で穏やかでないことを言っていたアクラエースが、はたと真顔に戻った。
「どうかしましたか」
「分からない」訝しむフォルティスに、アクラエースは短く答える。「だが、空気が変わった」
「空気ですか」
はっきりと曖昧模糊としたことを言い切った上司の言葉にフォルティスは首をひねったが、ひとつ深呼吸をしてみた。
と言っても、空気そのものを感じ取ると言うよりは、辺りに満ちている小宇宙を感じ取るための精神統一のためである。
それから目を閉じて、少しの音や空気の流れの変化も逃すことがないように、聴覚や嗅覚を研ぎ澄ます。
「……南ですね」フォルティスはゆっくりと目を開き、上司に向き直った。「ごくごく微弱な気配が現れたり消えたりを繰り返しています」
部下兼弟子の言葉にアクラエースは「そう。正解」と満足げに頷き、一目散にその気配の元へ飛ぶように駆け出した。
「おそらく緊急事態だ。急ぐぞ!」
「それなら、オレに気配探らせなくてもよかったんじゃないですかー!?」
「こういう事態もちゃんと感じ取れるかなって思ってー!」
「時と場合を選んでくださいよ、全体的に!」

のんびりとした会話とは裏腹の恐ろしい速度で二人が走れば、こうした会話が終わるよりも早くに目的地に到達する。
このアテナの聖域から最も近い人里からは遥か遠く、しかし聖域からもまだ少し遠い険しい山道の途上に、
全身のいたるところに傷を負って倒れ伏している旅装束の少年――顔はよく分からないが確実に背は低い、の姿があった。
「……気を失っているだけですね。直に目を覚ますと思います」
フォルティスが駆け寄って抱き起こしてみると、しっかりと脈もあり、胸がかすかに上下している。
傷自体も、あざやかすり傷ばかりで、深手ではないと判断し、二人はとりあえず胸をなでおろした。
「だが、何があってこんなところで倒れて……?」
聖域へ続くこの山道は人通りが少なく、仮に旅人の金品目当ての盗賊が出たとしてもおかしくない、
と思えなくもない――奪った物資を運ぶ手間と売りさばける人里が近くにないことを除いて、だが。
しかし倒れた少年の近くに無造作に転がっている荷物には、荒らされた形跡はない。
そのかわりに、道には大小の岩が散乱しており、右手にそびえる山肌が不自然に削れ、ところどころに穴ともいえる窪みができている。
アクラエースは、土ほこりまみれの少年と削れた山肌を交互に見比べて苦笑いを浮かべた。
「ああ……足を滑らせて、上の道から落ちてきたのか」
「ま、命に別状はなさそうで――ん?」
つられて苦笑いを浮かべたフォルティスは、少年の傍らに転がっていた金庫のような箱に目を留めた。
都市で売りさばけば高値がつくであろう、山猫の顔のレリーフに細やかな装飾が施された赤銅色の大きな箱は、
当然ながら開けられた様子も、持ち去ろうとされた様子もない。
フォルティスは聖域での上司の方へ振り返り「この箱って、もしかして……?」と、おそるおそる尋ねた。
「ああ、山猫座(リュンクス)の聖衣のようだな」
するとアクラエースは大きな箱にちらり、と視線を動かしてからうなずく。
フォルティスは、抱き起した少年の体つきを見て、やっぱりこいつ聖闘士か、とひとりごちた。
同じ年の頃の戦いを生業としない一般市民にしては、やけに鍛え上げられた筋肉のつき方をしているのだ。
生まれついての強盗の類の同年代の少年ならあり得なくもないかもしれないが、
聖衣の箱を運びながら聖域を目指していたということは、この少年は山猫座の聖衣の持ち主なのだろう。
「何か、急ぎの報せを持って来たのかもしれません。このまま、医務室へ担ぎ込みましょう」
フォルティスはうなずいて、ぐったりとした少年を小脇に抱えて立ち上がる。
「頼むぞ。私はその聖衣を修復士に見せて来るとしよう」
「いや、それもオレがやりますよ。アクラエースさんは教皇に――って、もう行っちまったか」
他方アクラエースは、フォルティスが立ち上がっている最中に、
相当な重量があるであろう聖衣箱を軽々と持ち上げて肩に担いで矢のような速さで走って行った。
上層部の間では、聖闘士でも中位の白銀聖闘士の中では実力者と目されているらしいフォルティスだが、
この上司兼師匠のアクラエースには一度も闘技で勝てたことがない。
聖闘士の最高峰とも言われる戦士である彼に、勝てずとも追いついて、役に立てる日が来るだろうか。
フォルティスは歴然とした力の差に溜息をついてから、
高速の移動中にうっかり抱えた少年を落とさないようにしっかりその腕を握りしめると、
何かがもぞ、と動いた感触が手のひらに伝わり、ほどなくしてフォルティスの脇の辺りからうめき声がした。
「うぅ、ん……? ん、あれ?」
もぞりと動いたのは、フォルティスが抱えこんでいる山猫座の聖闘士だ。そもそも、他に自立的に動くようなものなど持ってはいない。
フォルティスは足を止め、脇に抱え込んでいた少年の顔をのぞきこむ。年はフォルティスより少し下くらいだろうが、どうも丸っこい輪郭が幼く見せる。
少年はオリーブ色の瞳をくるくるさせて周囲の景色と自分の顔をのぞきこむ青年を見回すも、どうにも状況がつかめないようだ。
「あ、あなたは?」
「鷲座のフォルティス。聖域にいる聖闘士だ」
「聖闘士! よかった」少年は顔を輝かせた。「オレ、山猫座のカティリナです。オレの聖衣の箱、この辺りで見ませんでしたか?」
「それなら、もう一人の聖闘士が修復士のところへ持って行ったよ」
「よ、よかったぁ……盗まれてなかった……」
相手が関係者だと知り聖衣も無事だと分かったからか、山猫座の聖闘士――カティリナはほっと胸をなで下ろそうとして、自分が先輩に抱えられていることを思い出した。
「わー、ごめんなさい! あの、自分で歩きますから!!」
「そうそう、その言葉を待ってた。野郎を抱えてても嬉しくないし」
「すみませんねー、妙齢の美女じゃなくて」
カティリナを小脇に抱えていたフォルティスの方はたいして気に留めてはいなかったが、
彼が顔を赤くして慌てるさまが妙に微笑ましく感じ、からかうように感慨深い様子を装って深くうなずいて見せた。
すると彼はフォルティスの言葉を意図通りに受け取ったらしく、わざとらしい膨れっ面を作ってみせる。
そこまではっきりと言ってないぞ、とフォルティスは苦笑いを浮かべてから、抱えていた山猫座の聖闘士を自分の足で立たせた。
横に立たせてみれば、やはり背が低く、顔つきもまだ幼い。
だが、子供らしさが抜けない顔とは不釣り合いに鍛えられた筋肉と、体中に刻まれた新旧入り混じった傷跡は、戦士の証と見える。
自分で歩き出したカティリナの足取りは、何らかの事件のせいか、はたまた不注意から山道を転げ落ちたせいか、
やたらと周囲や足元を気にしながら歩いているためか、決して軽いとは言えない。
「で? ただボンヤリ歩いていて足を踏み外したのか?」
「いや、急いでたら足を踏み外したんです。アシアの方で、オレが逗留していた神殿が焼打ちに遭って――」
「そういう重要なことは早く言え」



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