正規の聖闘士ですから(前) −1



 アシアの大都市ペルガモンと古の戦場トロイの間にそびえる聖山。
遥か昔にはこの地で「最も美しい女神へ」贈られた黄金のりんごをめぐる審判があったと伝えられている。
もうじき夏の乾期を迎えるこの山は、青々とした樹木と下草、色とりどりの花によって春を描き出しているのだが、
その麓の一角には今、無数の氷の粒が舞い、まるで極北の地であるかのような様変わりを見せていた。
 そしてその氷雪の中に立っている銀色の鎧の男が三人――と、彼らに取り押さえられている黒い鎧の男が一人、
一瞬での冬の到来に怯えて、ただただ突っ立っているだけの黒い鎧の男たちが十人弱。

「オレ達は、女神アテナの聖闘士! アテナイより、暗黒聖闘士を名乗る無法者どもの討伐に来た!」
涼やかな声による物騒な言葉で口火を切ったのは、銀色の鎧の男達の一人、赤い瞳をした男だった。
わずかに西側の訛りを残してはいるが流暢なギリシャ語と、言葉に合わせて緩急をつけて動かす腕と手のひらの使い方は、
聴衆を引き込むための技術としての雄弁術を学んだことがあるかのような、場慣れした雰囲気を持っている。
彼――と、その後ろで倒れ伏した黒い鎧の男の背を踏みつけている大柄な男と、彼の隣で物憂げな顔で竪琴を抱えて立っている細身の男。
銀色の鎧に身を包んだ彼ら三人は、地上を守る女神アテナのもとでその拳を振るう戦士、聖闘士である。
本来ならば地上の存亡にかかわる大事にのみ動き、人間同士の争いは静観する立場を取っている彼ら聖闘士と彼らを擁するアテナの聖域だが、
遥かグラエキアの地からアシアまで、こうして無法者の討伐に来たことには、単純な理由がある。
赤い瞳の青年の後ろに控えていた竪琴を抱えた男が「えっと、つまりね」と、おずおずと前に出た。
「一度はアテナに忠誠を誓ったのに、根性なしにもアテナの聖域から逃げ出し、
 そのくせ勝手に聖闘士を名乗って悪事を働く困ったさん――を、僕らはお掃除に来たわけであって」
先ほどの青年とは打って変わって世間話のような穏やかな口調ではあるが、その言葉の一つ一つは刺々しい。
一度言葉を切ると、突然襲い掛かった寒さや恐怖に身を震わせる黒鎧達をぐるりと見回して、場違いに明るい声で言葉を続けた。
「あなた方のように、聖闘士だなんてつい最近聞いたっていう方々には手は出さないつもりなんだよ。だから」
この山にたむろしている暗黒聖闘士なる集団には、本当にアテナの聖域を出た者の他に、単なる地元の不良が混じっているという情報があった。
後者は本物の暗黒聖闘士――小宇宙についてかじったことがある人間、ほどの力もアテナへの憎悪もない。
そういった人間は、それはそれで困った人間ではあるのだが、アテナの聖闘士にとっては一般人と見なされる。
そして、聖闘士が手を下すのは人間離れした力をふるう者達であり、そうした一般人は保護すべき対象なのだ。
「だから、その黒い鎧を脱ぎ捨てて、ここから立ち去ってください! そうすれば僕達は、あなた方には危害を与え――」
「だ、だったら放せよ! オレが元聖闘士だって証拠があるって言うのかよ!」
ひと呼吸置いて、竪琴を持った男は意を決していやにきらびやかな声を張り上げたが、不意に、黒鎧の男達の中で一人だけ身柄を拘束されている者の喚き声に遮られた。
三人の聖闘士を見るなり一人先陣を切って飛びかかって来たので、二人が軽々と身をかわして、
一行の最後尾にいた大柄な男に足を払われ、起き上ろうとしたところを足で抑え込まれ、今に至っている。
「だいたい何なんだよ、これから夏だってのに寒いなと思って穴から出てくればこの雪景色!」
「さてね? 神様が大寒波で人間を減らしてやろうとか思ったんじゃないのか」
「あー、人口調整のためのトロイア戦争みたいなやつか。困るよね、そういうの。抗いようがないものねー」
黒鎧の男は握り拳で霜柱が立った地面を叩きながら、声だけは元気に不平不満を訴えている。
その喚き声を受け流すかのように赤い瞳の男が肩をすくめると、竪琴を抱えた男が同調するかのように苦笑いの混じった微笑を浮かべた。
「そういう事態に対応すんのが、聖闘士の仕事ってことになってるだろーが!」
すると黒鎧の男が聖闘士に噛みつかんばかりの勢いで吠えるものの、体はしっかりと大柄な聖闘士の足で固定されているため、やはり実際に動くのは口だけである。
「ああ、やはり」だが、ずっと無言だった大柄な男が口を開いた。「お前、聖闘士について知っている――と言うより、聖域にいた者だな?」
その声にほとんど抑揚がないことが、これから彼が何をしだすかわからない恐怖感をあおっていた。
「だ、だったら、どうだって――ん? ちょ、ちょっと待て、降ろせよ!!」
自分を足蹴にしている聖闘士の言葉に、取り押さえられた黒鎧の男は思わず口ごもりながらもなんとか口答えをしようとするが、
その言葉の途中で背中の重しが不意に消え去ったことに気が付いた。
彼がなんとか首と視線を動かしてみると、予想通りと言うべきか、聖闘士の姿を見るなり思わず飛びかかってしまった自分を足蹴にしていた男の足が見えない。
しかし黒鎧の男が飛び起きる間もなく、その体は首からぐい、と引き上げられ、ぶらんと宙づりになった。
「どうする? フォルティス」
「そうだな、少し脅かしてやるか」
子猫を運ぶかのように黒鎧の男をつかんだまま、大柄な男は赤い瞳の男――フォルティスを呼ぶ。
するとフォルティスは一瞬、彼と同じ銀色の鎧の男達にだけ見えるように悪戯っぽい笑みを浮かべると、
右手の人差し指をくい、と動かし、「グランドー、ちょっとそいつ貸して」と大柄な男へ呼びかけた。
「な、なんだよ、今度は何をしようって――」
グランドーと呼ばれた男は、つかんでいる黒鎧の男が喚くさまを全く気にかけることなく、
そしてフォルティスに何をするつもりだと詮索することもなく軽くうなずいて、
片手でつかんでいた黒鎧の男を無造作に上手で投げ飛ばして――二人の距離は数歩分しか開いていないのだが、よこしてやる。
男の体が完全に宙に浮かんだその瞬間に、フォルティスは胸のあたりで軽く握っていた拳を男に向かって素早く突き出した。
それは全く男の体に届いていないが、拳を放った本人はと言えば確実に何かを打ったという自信にあふれる顔を一瞬浮かべてから、
迷いなく空を切った拳を収めてもう一度表情を引き締めて、フォルティスは男達に向き直る。
顔色一つ変えずに成人男性を投げ飛ばした怪力――聖闘士にとっては特に珍しいものでもないが、に怯えた様子で身を震わせる者、
怯えながらも空振りの拳に薄い嘲笑を浮かべる者など、男達の反応はそれぞれだったのだが、
パキィン、というおよそ自然物の音ではない硬質な一音が森に響いた瞬間、空気が凍り付いた。
ほどなくしてグランドーに投げ飛ばされた男が、黒い金属片とともにフォルティスの足元の地面に叩き付けられる。
「ま、まさかこれは、暗黒聖衣……!?」
降り注いだ金属片を恐る恐る拾い上げた黒鎧の男は、振って来た男が着ていたはずの鎧がないことに気付くと、全身の力が抜けたかのようにドサッとくずおれた。
「ど、どうやってこの暗黒聖衣を壊して――」
「あれはね、拳圧だよ。け、ん、あ、つ」
恐怖に震える男達に場違いに優しい声で語り出したのは、竪琴を抱えた男だ。
「拳を直に当てずとも、拳を放った時に生まれる風があるでしょ? あれだけでも、十分に物を壊せるもんだ。実力のある聖闘士ならね」
そこで言葉をいったん切ると、彼は怯える男どもを見回すように目線を動かす。誰も口をはさむ余裕はないことを確認し、話を続けた。
「そりゃあ、得手不得手はあるけどね。僕はこういう殴る蹴るはあまり好きじゃないけれど――」
「ロクシアス、本題に戻していいか」
「ん? ああごめんね、どうぞどうぞ」
フォルティスは竪琴を持った男――ロクシアスを押しのけてから、さて、と一息ついて、
自分の足元に転がった黒鎧――どうやら暗黒聖闘士は暗黒聖衣と呼んでいるらしい、の破片を拾い上げ、怯えきった男達の正面へ突き出す。
「お前達が暗黒聖闘士として我ら聖闘士と敵対するならば、お前達もこうなるぞ!」
演説慣れしているであろうよく通る声でフォルティスがそう宣言した後の、一瞬の静寂。そこから先は――。
「い、嫌だあ! 死にたくないいいい!!」
「誰でもいいからローマの神々よ、我に加護をー!!」
「ごめんなさいごめんなさい明日から真面目に働きますからうわああああ」
「わ、ちょ、ちょっと、落ち着いて! 命までは取りませんから! とりあえずその暗黒聖衣を捨ててくださいってば、ねえ!
 フォルティスも言い方気を付けてよ、今のじゃ肉体自体を四散させる勢いだよー!?」
アリの巣をつついたような大騒ぎとなったという。


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