正規の聖闘士ですから(前) −3



 聖山の山麓を貫く風穴、氷穴、洞穴の類は、トロイの地底を無数に這い、迷路のような危険を作り上げている。
今、その迷路の危険を一つを構成しているものの中に、自然の驚異でもなく、神の意思でもないものが一つ混じっている。
フォルティスは、天井からつららのように垂れ下がった石や地面から突き出た石筍によって道のようになった洞窟の中を進む途上、
肌を突き刺すような殺気が混ざった鋭い視線を天井近くから感じて、顔を上げた。
どうやら今回の任務の標的である聖闘士崩れ、暗黒聖闘士がこちらを返り討ちにしてやろうと息巻いているらしい。
「あいつかな、暗黒鷲座っていうのは」
すると、壁や天井にできた出っ張りに手足をかけて、じっと動かない――と思っていたら、
フォルティスの視線に気が付いたらしく身体をビクッと震わせた青年の姿が見えた。
敵が通るタイミングで上から不意を討つつもりでいたようだが、
攻撃を仕掛けるより先に自分の存在が気づかれたことは予想だにしていなかったらしく、
チッと舌打ちをすると姿勢を変えずに顔だけを向けてきた。
距離が開いているために顔立ちはよく分からないが、褐色の肌と、
長らく手入れしていないであろう傷んだ銀髪を一房だけ鮮やかな橙色に染め上げた、いかにも不良らしい頭だ。
「ここに、聖闘士が何の用だ?」
「聖闘士が黒い集団に用事って言えば、決まってるだろ。掃除だよ」
天井から降りて来ない不機嫌な声の暗黒鷲座の言葉に、フォルティスは、行きつけの店でいつもの定食を頼むかのような口ぶりで返す。
「できるのか、聖域でぬくぬくと過ごしているお前らなんかに? こっちはな、弱肉強食の世界で生きてきてんだぞ」
暗黒鷲座は、気合の入っていないフォルティスの返答に、威圧するように声を低くした。
「できるさ」それでもフォルティスは相手の苛立ちを受け流すように肩をすくめると、にやり、と笑う。
「なに」不良の方は、すごんでみても全く意に介さない聖闘士への苛立ちを隠そうともせず顔をしかめる。
フォルティスは、不良が自身の発言に喰いついてきたことを確認するように軽くうなずいて微笑むと、
左腕にはめた銀色の籠手を見せつけるように、左拳を持ち上げてみせた。
「こっちは聖域の厳しい規則と訓練に耐えてきて、聖衣に選ばれた正規の聖闘士――」
「ならやってみろよ、このエリート気取り!」
フォルティスの挑発が終わるより先に暗黒鷲座は怒号を上げて、壁や天井をつかんでいた手を放すと、
ぐっ、と踏み切って天井近くのさらに高くへと跳躍する。
この動きが何の前兆か、鷲座のフォルティスにはすぐさま理解できた。
「高さを活かしての蹴り……か。腐って防具が黒くなっても、戦い方は割と普通じゃないか」
暗黒鷲座は跳躍からくるり、と体をとんぼ返りさせると片足を突き出して、地面に立っているフォルティスを目がけて一直線に急降下をかける。
フォルティスは、急所の一点を狙った蹴りを放とうとしている相手の意図を汲み取り軽くうなずくと、籠手をつけた左腕を体の前に引き寄せた。
山の洞窟の天井から地面という高度を活かした蹴りはそれだけでも鋭い一撃になるが、
そこに曲がりなりにも鍛えたことがあると思われる気合や怒り――によって活性化した小宇宙が上乗せされれば、さすがに大きい威力を帯びるはずなのだ。
この衝撃を聖衣で和らげようと、フォルティスは左腕を前に突き出すようにして防御の構えを取った。
「ハッハハハ! そんな防御で、弾き返せると思うなよっ!」
相手の足が動かないことを恐怖に凍り付いたと思ったのか、暗黒聖闘士は狂気じみた笑いを上げながら降下してくる。
「そうかもしれないな」
「な、なに!? 何か企んで――」
だが、フォルティスは近づいてくる相手の言葉を受け流すようにしれっと返し、左の拳を握る。
聖闘士が自分の言葉をあっさりと肯定したことに、暗黒鷲座はかえってたじろぎ、目を見開き、飛び蹴りを放ちながら思案し出した。
――こうも余裕をかまして突っ立っているということは、聖闘士には何らかの意図があるのか。
いや、聖域の聖闘士が、聖闘士になれなかった暗黒聖闘士を見下しているのはいつものことだ。
ならば一撃を受けても、平気だと踏んでいるのか。しかし奴はこの一撃を弾き返せるとは思っていない。
「弾く弾かないの問題じゃない」混乱する暗黒鷲座の思案を断たせるかのように、フォルティスは首を横に振った。
そして自身の左胸に迫った相手の爪先を軽く体をひねってかわすと、空いていた右腕で相手の足首をガシッとつかみ、その動きを止めさせた。
「そもそも、食らわないんだよ」
「な……は、放せ、このっ……!」
高所からの飛び蹴りの勢いを片手で止めた聖闘士の怪力と涼しい顔に、暗黒鷲座の顔からサッと血の気が引いた。
トラバサミのように強烈に足をつかむ聖闘士の手から脱しようと体をばたばたと動かそうにも、手足をかける場がなく力がかけられない。
なんとか空いている片足を最大限に伸ばして、もう片足をがっしりとつかんで離さない聖闘士の右腕へ蹴りを繰り出しても、
ほんの軽い衝撃しか与えることができていないのか、はいはい邪魔だよ、と小虫を追い払うかのように軽く手ではたかれた、が。
「ん……虫にでも刺されたかな?」
フォルティスは暗黒鷲座に蹴りを入れられた右腕に違和感を覚えて、その様子を確認しようと、くるり、と手首をひねる。
すると右手でつかんでいた敵も一緒にくるりと回り、勢いよく地面に叩き付けられ「ぐえっ」と呻いたが、
そんなことはいっさい気にかけていないかのように、フォルティスは自然な動きで暗黒鷲座を踏みつけつつ腕に目をやると、
蹴られた跡には数本の黒い針が突き刺さり、そこから血が一すじ滴り落ちていた。
「爪先に針を仕込んでいたとは……姑息というか、せこいというか」
「フッ。能ある鷲は爪を隠すというやつだ」
暗黒鷲座は踏みつけられて動けない状態で、フォルティスが苦々しげに呟いた言葉を耳敏く聞きつけ、得意げに口角を上げて笑って見せた。
フォルティスに「それは鷹だろう」と言葉の若干の誤りを指摘されても、
そういう事柄に関心がないのか、「勝ちゃいいんだよ、んな細かいことなんて」と眉ひとつ動かさない。
そもそもモラルだ教養だと言ったものを重視しない暗黒聖闘士だ、彼らの立場からすればもっともらしい言い分に、フォルティスは「それもそうだな」と合点した。
「だが、その程度で正規の聖闘士に勝てると思うなよ」
合点はしたが、暗黒聖闘士について理解を深めるつもりは毛頭ない。
分かりあうあわないの問題ではなく、暗黒聖闘士の存在そのものを聖域は許していない。
彼らは聖域にとっては敵、というほど大したものではないが、見つけ次第無条件で叩きのめすように通達が出ているのだ。
そしてフォルティスはその任務に忠実に、目の前の聖闘士崩れを手早く倒すべく、この地に派遣されているのである。
その聖闘士崩れも、一度くらいは聖域で顔を合わせたことがあったかもしれないが、そこで情けをかけようと思うほど深い仲ではない。
フォルティスは暗黒鷲座を踏みつけて動きを止めていた足をどけると、その爪先で、腹這いになっているそれを持ち上げる。
「な、何を――」
「本物の鷲座の聖闘士の力……思い知っとけ!」
暗黒聖闘士が抗議の声を上げ終わるより先に、フォルティスは爪先でひょい、と軽く暗黒鷲座を浮かせると、勢いよく洞窟の天井近くまで蹴り上げた。
白銀聖闘士の高速の蹴り上げによって、見る見るうちに天井すれすれの高度まで上昇した暗黒鷲座の体はすぐさま一直線に落下し、
そのまま地面に叩き付けられる――かと思われた、が。
「よっ、と」と、フォルティスも相手の落下の始まりにあわせて地を蹴り、高く跳躍した。
落下する暗黒鷲座を追い越して宙へ舞い上がると、追い越された側は、何を考えているんだ、と言いたげな訝しむ顔をしたが、
フォルティスが突如くるりと身体を回転させて、片足を突き出して急降下をかけると、彼の目は恐怖に見開かれた。
自分が仕掛けようとしていた攻撃が、自分が受け身の取れない状態に叩き込まれる。
分かっていても、まるで蛇ににらまれた蛙――いや、蛇食鷲に睨まれた蛇のように身動きが取れず、そのまま落ちていくところへ、聖域の正規の聖闘士が迫った。
「イーグルトゥ、フラッシュ!」
フォルティスの爪先は自由落下していく暗黒鷲座の首の後ろを貫かんばかりに深く突き、
鍾乳石が乱立する地面へと落下――する直前で蹴りの反動によって大きく飛び退いて、スタッ、と着地した。
もともとの落下に加えてフォルティスの蹴りによって増した衝撃に耐えきれなかったらしく、
砕け散った黒い鎧の破片と一緒になって地面に転がっている。
すぐさま敵が動き出さないことを目視で確認すると、フォルティスは衣服に付いた土埃を払い落として、ふーっ、と一息ついた。
「さて、次に行くかな」
「フ……甘いぞ、フォルティス」
「ん?」
何の感慨もなく敵を排除し先を急ごうとする聖闘士は、不意に名を呼び止められて、思わず奥へと進もうとしていた足を止めた。
なぜオレの名を知っているんだ、と言いかけて、おそらく聖衣を得るための勝ち抜き戦でぶっ飛ばした何人かのうちの一人だな、と得心した。
「どういうことだ」
「……全ての暗黒聖闘士が、一筋縄で、行くと、思うな」
名前を知っている理由を問い返されたかったが期待した言葉が返って来ず、暗黒鷲座はしばし閉口したものの、気を取り直したかのように薄笑いを浮かべた。
「と、言うと」
やっとフォルティスは振り返り、昔にどこか見覚えがあったような無いような、褐色の暗黒聖闘士を注視した。
自分で倒しておいてなんだが助からないな、と思った。
「ペルセウスの……暗黒聖衣も……」
暗黒鷲座は言葉を続けようとしているのだろうが、それ以上声は出なかった。必死に上げていた首もがくりと力なく落ち、あとはぴくりとも動かない。
それでもフォルティスは、なるほど、と軽くうなずいた。
――聖域の白銀聖闘士、ペルセウス座の聖衣が持つ特性。それを、暗黒聖衣とやらも生意気にも持っているのだろう。
フォルティスは、どうやら少し面倒くさいことになりそうだ、と肩をすくめると、振り返ることなく再び歩き出した。


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