正規の聖闘士ですから(前) −4



 複雑に入り組んだ洞穴の内部に響く音が、いくつかある。
鍾乳石を伝う静かな水音、ときどき吹き抜ける不気味な風音、奥を目指して歩く聖闘士の軽快な足音、そして、竪琴の歪んだ音色。
「……へったくそだなあ」
深部からかすかに聞こえる竪琴の音に耳を傾けながら歩いていた琴座のロクシアスは、ひとりでに呟いた。
聖山の地下洞窟の奥から聞こえてくる琴の音色は、繁華街の居酒屋のような雰囲気をかもしていた。
食べ物をこしらえる火の煙たさ、酔客の罵り合いのようなやかましさと刺々しさ、酒の甘ったるさ、
そういったものをよく混ぜて練って粘りを加えたような、あまり品の良くない不快な音――と、ロクシアスには思えた。
そしてその音で奏でる旋律もまた、およそ規則的とは言えない滅茶苦茶な音の飛び方をしている。
よく言えば前衛的だが、奏者が奏者――おそらく暗黒聖闘士なので聖域の規則を守らない人間だ――だけに、ロクシアスにはそれをよく言う気持ちが全く起こらない。
「お楽しみいただけたかな」
不快な音楽に顔をしかめながら周囲を警戒して歩いていると不意に音が止み、きざったらしい声が聞こえてきた。
声の方向へとロクシアスが首を向けると、テーブル状に連なった鍾乳石に腰掛けた、竪琴を抱えた黒い鎧の男の姿が目に入る。
「さっきの音楽は、君が?」
どうやらこの男が琴座を名乗っている暗黒聖闘士であるらしいと、ロクシアスは踏んで、硬い声で尋ねる。
すると黒鎧の男は「その通り」と満足げにうなずいて豊かな黒髪を揺らすと、にやりと歪めた顔を上げた。
風穴の入口でのした暗黒聖闘士が言うには元聖闘士候補生らしいが、ロクシアスはその顔には見覚えがない、と思った。
それは、上げた顔にばっちりと施された青いアイシャドウと濃いアイラインという大昔のエジプト風の化粧のせいかもしれないが。
素材はそこそこいいのにもったいない、とロクシアスは顔をしかめたが、向こうの質問のことを思い出して、かぶりを振った。
「ダメだね、ほんとダメ。聞いてられない。音がおかしいし、旋律だってメチャクチャ――」
「心地よければ、音楽に正しいも間違っているもあるまい?」
ロクシアスはありったけの批判を浴びせようとしたが、それを暗黒聖闘士の竪琴の奇妙な音といやに朗々たる声に遮られた。
ムッと顔をしかめたロクシアスが反論する間もなく、暗黒琴座はまた竪琴をかき鳴らす。
「と、言うと」ロクシアスはぽん、と手を打った。「ああ、音楽が持つ意味や効能なんて知ったことじゃないってやつね」
古い音楽理論によれば、天体たちは常に宇宙をめぐりながら美しい音を奏でていると言う。
規則正しく宙をめぐるそれらが奏でる音は宇宙の中でひとつの甘美な音楽となるが、その音は常に鳴り続けているため、人間にはそれが認知できない。
この人間には捉えられない、ひとつひとつの天体が奏でる音の集合体こそが調和ある正しい音楽であり、その調和――コスモスが魂を浄化する。
無秩序、無分別な音の塊では宇宙の調和を表すことはできず、奏者の魂も聴衆の魂も、汚れを捨て去ることはできない。
だからこそ人間も、天体が奏でる正しい音楽を追及し、それに近づくことで大宇宙と自らの中に眠る小宇宙を合一させ、自らの力を呼び起さねばならない。
ロクシアスとこの暗黒琴座が対峙している現在から遡ること千年ほどのある時に、そう唱えた哲学者達がいた。
「魂の浄化だなんだなど、わけが分からん。音楽の良し悪しは心地よさで判断されるべきだろう?」
もちろん、そうした音楽による宇宙との合一に興味を示したのは一部の人間だけであり、この理論に反論する動きも多くあった。
そして、音楽はそれがもたらす愉悦によってのみ善し悪しが判断されるべきであると主張したのである。
「一理あると思うけど」自身に満ち溢れた癇に障る声で言い放つ暗黒琴座の言葉に、ロクシアスはため息をもらす。
自分の理論――先の主張も八百年ほど前の学者のものだが、を肯定されていい気分にひたっていたところに水を差され、暗黒琴座は顔をしかめたが、
聖域の琴座は構わずに手元の銀の竪琴の弦をつまみ、軽く弾いた。水音にも似た、澄んだ音がする。
「その主張があるなら、なおさらさっきの音楽はダメだ。ものっすごく不快だもの」
「ならばこの音楽の素晴らしさ、その体に叩き込んでやる!」
ロクシアスが、声色こそ柔らかいもののそれ以上の議論を許さない厳しい語調でぴしゃり、と言い放てば、
相手はねじ曲がった黒塗りの竪琴を抱えて立ち上がるなり、乱暴にその弦に指をかけた。
調律などまったくされていないであろう弦は、暗黒琴座の赤く塗られた爪先によって乱暴に弾かれて、こすれた音を歌い出す。
どうにも品のない音色にロクシアスは顔をしかめたが、彼も銀色の竪琴を構えると、暗黒琴座の音楽を「どうぞ」と促した。
この暗黒琴座の音楽は彼にとっては不快なことこのうえないうえに、聖域の敵なのだが、
もしかするとこういう音楽が好きな人もいるかもしれないし、曲の後半から自分好みになってくるかもしれない。
そしてロクシアスも、音楽の価値は聴衆をいい気持にしたかどうかで決まることは、悪いことではないと考えていた。
つまるところ、単なる好奇心である。
暗黒琴座は促されて不敵に笑うと低めの身長とは不釣り合いな低音で歌い出し、竪琴をかき鳴らした。
「怒りを歌え、詩神よ……」
およそ小型の竪琴からは出せないはずの重苦しい低音が、風穴に響き出した。
その音で奏でる旋律も音色に釣り合うどんよりとしたものなのだろうか――とロクシアスは身構えたが、
黒塗りの竪琴から飛び出た曲はこの風穴に入った時に耳にした音色と同じように滅茶苦茶なものだった。
高音と低音がをせわしなく行き交い、ゆっくりとした速度から急転して駆け足になる、
挙げ句の果ては弦の軋む音、竪琴の胴を叩く乾いた音が混ざり込み、もはや音楽と言うよりは無秩序な雑音の群れだ。
「これなら、ムーサも怒りを歌うや」
やはり機会を与えてみたのが間違いだったようだ、とロクシアスは雑音の不快さに天井を仰ぎ見て嘆息してから、
自分の銀の竪琴の弦に指をかける。
だが、ひとつ深呼吸をして、いざ指を動かそうとしてみると、彼は不意に頭をしめつけるような鈍い痛みを覚えた。
ぐらり、と一瞬歪んだ視界にロクシアスは「くっ」と声をもらしたが、
すぐに、はて昨日は飲みすぎだったかな、と能天気に首をひねる。
暗黒琴座が竪琴を爪弾く手を止めぬまま、歌い上げるように言う。
「これが、我が、必殺の、旋律……ストリンガー、オブスタクル、だ!」
「必殺のって君……やっぱり音楽としては最悪じゃないか」
声は朗々としているものの、弾きながら口を動かすことは苦手らしく、非常にたどたどしい。
それでも得意げな相手の顔と言葉に、ロクシアスは重い頭を支えるように額に手を当てながら声だけは軽く言い放ってから、すかさず耳を塞いだ。
ただ単純に不快な音に耐えかねてと言うよりは、必殺と本人が宣言している音を少しでも耳に入れないようにしようという抵抗である。
だが、それに対して暗黒琴座はたじろがず、むしろ不敵な笑みを浮かべて竪琴を爪弾き続ける。
彼の竪琴から発せられる音――もはや竪琴の音とも言い難いのだが、だけが洞窟内にしばらく響いていたが、不意に暗黒琴座が口を開いた。
旋律が落ち着いたところへ入ったらしく、言葉は流れるように出てくる。
「この旋律はお前の体すべてを微細に震わせて、その機能を弱らせる! 耳を塞いだところで、意味などないぞ」
「なるほど、酔ってる気がしたのはそのせいか」
こちらが攻撃を仕掛けないことで調子に乗った暗黒琴座の言葉に、ロクシアスは手のひらを打つ。
ただただ不快に聞こえていた音の群れはれっきとした聖闘士――彼は暗黒聖闘士だが、の攻撃で、ただの下手な音楽ではなく、
琴の弾き方、その際の小宇宙の乗せ方、そういったこまごまとした点にはいい加減に見えて計算されているということだ。
だとすればこの暗黒琴座も、その気になれば正しい音楽、美しい音楽を奏でることができるのかもしれない――が、
彼が敵である以上、そんなことは考えても仕方がない。
ロクシアスは改めて深呼吸を一つ行ってから「じゃ、そろそろ僕もやるかな」と微笑むと、細い弦を一本つまみ、手放した。
この洞窟へ足を踏み入れるより先に念入りに調律された竪琴の弦が、澄んだ音を立てて優しく揺れる。
「本当の音楽ってものを、教えてあげよう」
自分の音とは似つかない、繊細だが芯のある音に、暗黒琴座は一瞬たじろいで、まだ終わっていない旋律を止めた。
一人しかいない聴衆が静かになったことを見届けるとロクシアスは満足げにうなずき、指を動かしだした。
「詩人たちの守護神よ、あなたがたの力を借りて、あなたがたの力を歌おう!
 音楽が心を落ち着かせることも、我々に知恵を与えてくれることも、あなたがたの御業!
 しかし今必要なのは、より力強い調べ。私は、あなたがたの息吹を受けた有象無象を歌うとしよう」
ゆっくりと、しかし間断なく、力強い音が洞窟内に響きだした。
「カドモスを祖に持つアムピオンの竪琴の音は岩々を動かし、テーバイの七つの門を持つ城壁を築いた。
 いや、彼が築いたというよりも、琴と歌声の調和に心を動かされた岩々が彼に力を貸したと言うべきだろう。
 そしてカリオペーよ、あなたの息子、楽人オルフェウスは魔法のようなその音楽で、森の木々、獣たち、果ては岩石を動かした。
 彼へ投げられたつぶても、彼の音楽の調和の心地よさにその勢いを失い、静かに足元へと落ちてゆく」
寄せては返すさざ波のように高音と低音を行きつ戻りつする琴の音に、きらびやかな声が唱和する。
それはただ音楽として聞くならば心地よいものかもしれないが、これは聖闘士とならず者の戦いであり、音楽は武器となりえる。
「宇宙と調和した正しい音楽は、人や神々の心を動かすだけじゃないんだよ」
ロクシアスは不意にゆったりとした伴奏を止めると、手持ちの竪琴で最も太い弦を何度か弾く。
何の節もなく変哲もない単音の連続に暗黒琴座が訝しげに目を細めた瞬間、自分の目線が突然上に動いたように感じた。
暗黒琴座が奇妙な感覚に細めていた目を慌てて見開くと、洞穴の天井から垂れ下がった石柱の先端が目の前にある。
首を動かして足元を見れば、そこにあるべきはずの地面ははるか遠く、地面に立つ敵の聖闘士もずいぶんと小さく見えた。
「……念動力を、琴の音に乗せているのか!」
「ご明察」ロクシアスは明るい声とともにうなずく。「正しい音楽はね、物体そのものだって動かせるのさ!」
ロクシアスが太い弦にひっかけていた指を、一気に細い弦へと滑らせる。
すると、音の隙間なく流れるように高くなっていく音階によってか、暗黒琴座の体は見えない力によって後方へ大きく引っ張られた。
「な、やめ……ぐああっ!?」
暗黒琴座は顔は地面と琴座を見下ろしたままの体勢で悲鳴を上げるつもりがかすれた声を上げながら、大きく後ろへ飛ばされる。
その途上で天井から垂れた何本かの石柱を背中で壊しつつ、数秒後には後ろの壁へと激突した。
壁に激突してようやく勢いを失い、頭から落下してきた暗黒琴座が地面に激突したのを見届けてから、ロクシアスは「ふへぇ」と息をつく。
それから、気を失っているらしく全く動かない暗黒聖闘士の体に数回軽く拳をぶつけて、ヒビが入っていた暗黒聖衣と黒い竪琴を粉砕した。
「これで懲りてくれるといいんだけどなあ。さて、次、次っと」
最後に暗黒聖闘士を名乗っていた青年の体を壁際に寄せて、聖域の琴座もまた、足早に歩き出した。


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