正規の聖闘士ですから(前) −5



 初夏を迎えた聖山の麓の空気は、高温ではあるがからりと乾いているが、さわやかだ。
しかしそれは外の話で、日の光も南風も届かない山の内部の洞窟はむしろ肌寒いとも言えた。
もっとも、今の聖山の麓はここを襲撃した聖闘士によって突然の氷雪に見舞われて空気が冷たい状態にあるのだが。
「待っていたぞ、アテナイの鯨座の聖闘士ぉっ!」
だが、その涼やかな空気を打ち破る暑苦しい大声が洞窟に響き渡り、アテナイの鯨座の聖闘士グランドーは足を止めた。
グランドーが顔を上げると、地面から突き出た鍾乳石が少ない比較的開けたところに、
黒い鎧を着こんだ巨漢――聖域では大柄な方に入るグランドーより首一つ分背が高い、が立ちはだかっていた。
どことなく少年らしく輝かせた目を載せた顔面には、新旧入り混じった傷跡に混じるように何かの文字が焼きつけられている。
「待っていた?」敵からの予想していなかった言葉を、グランドーは思わず繰り返した。「オレは、お前のことなど知らないが」
「そうだろうな」黒鎧の男は面白くなさそうに、フン、と鼻を鳴らす。「だがその聖衣は本来、このオレが貰い受けるはずのものだった」
事情を聞かれたがっていそうな黒鎧の男の顔を一瞥して、グランドーは先を促すように軽く首を振ると同時に、軽く拳を握った。
話をじっくりと聞いてやるつもりは毛頭ないが、勝手に話すことは――戦いとは違う場所へ意識を向けることは、好都合だからだ。
「あれは四年前――その日は師に誘われ、聖域の外の町に出ていた」
相手が好きにしているその間、自分は最小限の労力で敵を倒すという一点に集中し、渾身の一撃をいつでも放てるように小宇宙を研ぎ澄ます。
正々堂々とした戦い方を重んじる聖闘士にとってはあまり褒められた戦い方ではないかもしれないが、ここは戦場だ。
戦い方や勝ち方にこだわることで勝機を逃すほど愚かなことはない、と彼の師はたびたび漏らしていた――そして同僚からやんわりと咎められていた。
「そこで師が酔客に絡まれて殴られたから、二人で全力で殴ってやったのよ!」
四年前といえば自分が鯨座の聖衣を賜った時期とちょうど同じだ、とグランドーは思ったが、それでも真剣に話を聞いてやろうとは思わない。
グランドーはひとつ深呼吸をして拳を握ると、ちらり、と向こうの顔を盗み見る。
相手は話すことに一生懸命になっているようで、自分の反応の有無など見ていないらしい。
拳を振り上げてはいるがそれは戦いのためではないことは、熱の入った語り口と無意味に振り上げる腕を見れば察しはつく。
「すると、一般人に二人がかりで拳を振るうとは何事だ、と師ともども聖域より追放を言い渡されたのだ!
 鯨座の候補生の中でも、最も聖闘士の座に近いと言われていたこのオレがだ」
自分たちの戦いは守るための戦い、正義のための戦いである、と標榜するアテナの聖闘士にとって、戦士でない者へ危害を加えることは、あってはならない。
そのうえ、正々堂々とした戦いをよしとする聖闘士が多人数で一人に攻撃を加えることも良しとされていない。
聖域からの追放処分も当然だ、とグランドーは思った――その男の隙を窺うために仕草を注視していたおかげで、話を半分も聞いていなかったが。
「オレは聖衣を得る機会を失った。だからこそ」黒鎧の男は、ぐっ、と拳を握る。「お前を倒し、オレが暗黒鯨座などではなく真の鯨座の聖闘士だと証明してやる!!」
どことなく筋が通っているようないないような、そんな主張を叫びながら、黒鎧の元鯨座の候補生は、身を屈め地を蹴るように走り出した。
もう少し長く自己紹介が続くかと思っていたが、向こうは主張したいことをしゃべり終えたらしい。
グランドーは、一人勝手に激昂して飛びかかってくる暗黒鯨座の様子にたじろぐことなく深く息を吐くと、右拳を固く握りなおした。
それから「どりゃあー!」などと雄叫びを上げながら突進とともに掌底の連打を仕掛けてきた暗黒鯨座を、軽くいなしてよろけさせる。
そして、すかさず縦幅も横幅も並の聖闘士以上にある身体を屈めてひとこと「凍れ!」と鋭く叫び、両掌で地面を一度軽く叩いた。
すると鍾乳石からしたたり落ちた水滴によって濡れた地面は、グランドーの手指が触れたところからピキ、と音を立てて薄氷を張っていく。
「凍気使い……そうか、お前か!」向こうにはグランドーに思い当る節があったらしく、興奮の色がにじむ声を上げた。
アテナの聖域で小宇宙の扱いを学ぶ人間は数多いが、その小宇宙によってものを凍らせる――凍気の使い手は多くはない。
その要因は、地中海に面した温暖な気候のもとで育った人間にとって身も凍る寒さは想像がつかず扱いづらい点、
破壊へ重点を置いた聖闘士の闘技の中でも、凍気は行動力を奪うことに主眼が置かれ補助的な役割しか持たない――もちろん熟達者なら話は別だが。
そのためか、わざわざ凍気を極めようと思う人間が少ない点、
そして何よりも、それらの条件を乗り越えてくる聖闘士やその候補生が少ない点。
少なくとも、当時の鯨座の候補生の中では凍気を扱うのは自分だけだった、とグランドーは納得して軽く頷いた。
「だが、どこを狙ってえェ――ッ!?」
暗黒鯨座はそのまま地面を強く蹴って駆け出す――はずだったのだが、ごつごつとしていたはずの地面は一瞬にして氷に覆われ、足の掛場をなくしている。
そこに勢いよく突進をかけたことによって氷で足を滑らせ、自信にあふれた高らかな声と大柄な身体を浮かせた。
「狙いは、この時だ」
グランドーは氷が張った地面に大きく踏み込んで、右拳を固く握る。
「ダイヤモンド……ダスト!」
凍気をまとった聖闘士の拳は、転倒して目の前に飛び込んできた男の顎を突き上げて、
その体を天井高くへと吹き飛ばし――天井から垂れ下がった鍾乳石に衝突して地面へと落下させる。
暗黒鯨座は石筍の突き出た地面と衝突すると、「ぶへっ」と牛蛙を潰したような声を上げたが、すぐには身体が動かない。
グランドーは相手が身動きが取れないことを見て取ると、自分で凍らせた地面へ慎重に足を降ろし、黒鎧の方へ滑るように歩を進めた。
近くに寄ってみると、そういえばこんな顔の候補生と手合わせをしたことがあるような、とも思ったが、
彼が今、暗黒聖闘士である以上、情けをかけることはできないし、情けをかけるつもりも毛頭ない。
今はこの洞窟にいるらしい暗黒聖闘士の全てを無力化させることが先決で、この鯨座崩れにこれ以上構っている暇はない、とグランドーはひとりでに頷いた。
大の字に四肢を広げてのびている暗黒鯨座の隣でグランドーは足を止め、その男の両手首を薄氷の張った地面にぐっ、と押さえつける。
聖闘士の怪力と標的の重さに耐えられず、薄氷はパリン、と澄んだ音を立てて割れて、黒い鎧をつけた男の腕を湿った地面へと沈め、
そのまま暗黒鯨座の腕を握る手に力をこめる――が、そこに込めた力は腕力だけではない。
両手に込めたのは凍気――活性化させた小宇宙により周囲の気温を一気に下降させる力である。
「くそっ、とどめを刺すつも……って冷たっ! いったいなんだって……げえっ!?」
ほどなくして意識を取り戻したらしい暗黒鯨座は諦めの混じった声を上げたかと思えば、その声は途中から悲鳴に変わっていた。
水がたまった地面とそこに押し付けられた男の腕は、グランドーの掌が触れた場所から見る見るうちに凍り付き、氷によって地面と一体となる。
「悪いが先を急ぐ。しばらく大人しくしていてくれ」
「バ、バカにするな! この程度でオレの動きを封じられると思って――」
まったく悪びれる様子のない抑揚のない声で、グランドーは適当に言葉を返す。
そのあまりの素気なさに暗黒鯨座は激昂して殴りかかろうと飛び起きようとするが、地面に埋められ氷を張られた腕はぴくりとも上がる気配を見せない。
グランドーは相手が動ける様子がないことを確認すると、軽くうなずいて口の端を軽く上げた。
暗黒鯨座は「ぐぬぬ」と唸り声を上げると、全身に力を込めて己の小宇宙を熱と変えようとしてみるが、
凍気の肌を刺すような痛みに耐えかねて集中が途切れ、大きく息を吐いてしまう。
氷など放っておけばそのうち解けるのではないか、と暗黒鯨座は一瞬顔を輝かせたが、
この山の地下洞窟には日光が差すこともなく、暖かい南風が入り込むことも滅多にない。
そのうえ、この鯨座の聖闘士が凍気をまき散らしたおかげで気温はかなり下がっており、自然解凍はあり得ないことだということに、すぐに気が付いた。
「仲間にでも助けてもらうことだな。残っていればの話だが」
がっくりと肩を落とした元鯨座の候補生の男にグランドーは一言声をかけると、薄氷を張った地面を慎重に歩き出す。
その言葉に黒鎧の男は「仲間――そうか!」と顔を上げたが、その直後に、洞窟の最深部から竪琴の音が聞こえた。
黒鎧の男には聞き覚えのない澄んだ音だった。と言うのは、彼とつるんでいる暗黒琴座の琴の音はどことなく胃もたれを起こしそうなしつこい音だったからである。
暇さえあれば竪琴を奏でている男の琴の音の代わりに、別の琴の音が聞こえてくる。これが示すことは明白だった。
「暗黒琴座……あいつ、やられちまったのか!」
「実力不足で聖闘士になれなかった者が、聖衣を着た聖闘士に勝てる道理があるはずがないだろう」
「いや! 大事なのは聖衣や階級じゃねえ。だいたい――」
思わず声を上げた暗黒鯨座に、聖域の鯨座は振り返りも足を止めもしないままで言葉を返す。
聖闘士となる前に聖域を出た暗黒聖闘士と、厳しい修行に耐え技を磨き抜いてきた聖域の聖闘士。
両者の実力差は歴然としているが、さらに聖闘士の力を最大限に引き出す防具――聖衣が加われば、その差を覆すことはほぼ不可能だ、とされているが。
その摂理をピタリと言い表した聖域の鯨座の言葉に暗黒鯨座が首を横に振ると、水気を含んだ土が口に入り込む。
軽くむせて唾を吐きだしてから、自分の言葉で悦に浸るように目を閉じ、静かに語り始めた。
「聖闘士や暗黒聖闘士に最も大切なものは小宇宙だろ?
 聖闘士の戦いっていうのは、自分の小宇宙をより燃やし、爆発させた者が勝つ。
 生まれ持った星の加護とか運命とか、そりゃああるにはあるが、それだけじゃない。
 それしか戦いの趨勢を決めるものが無いとしたら、オレ達は何のために鍛錬を重ねてるっていうんだ?
 小宇宙には限界はない、鍛えれば鍛えるほど小宇宙はそれに応えて、上の位の奴らと肩を並べることだって――?」
聖域のエリートを相手に、凍えそうな体――実際に腕は凍っているが、で熱弁をふるっていたつもりの暗黒鯨座だが、
周囲から生き物の気配が消えていることにふと気がついた。
そして不思議に思って目を開けてみれば、そこには誰もいなかった。
「って、もういねえ!? おいっ、人の話はちゃんと最後まで聞けって師匠から教わらなかったのか!
 おーい! おぉおおおおおーい!」

「顔も凍らせた方が、よかったかもしれんな」
遠くから聞こえてくる自分を呼ぶ声にグランドーは顔をしかめたが、そのまま洞窟の奥深くへと足を運ぶ。


――入口でのした奴曰く、中に残った暗黒聖闘士は、あと一人。


 前へ    目次    次へ